『ボヴァリー夫人』まで
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「ギュスターヴ・フローベール」の記事における「『ボヴァリー夫人』まで」の解説
1847年4月、激しやすいルイーズとの関係に疲れていたフローベールは、マクシム・デュ・カンとともに旅行を計画し、途中神経の発作に見舞われながらブルターニュ方面を3か月かけて旅行、帰郷後はデュ・カンと共同で旅行記を執筆した。この年の末よりフランスは政治的な混乱に揺れ、翌1848年2月23日、フローベールはルイ・ブイエとともにパリに出向き、新聞に予告のあったデモに付き従った。パリの混乱に面したフローベールは自らも猟銃を手に国民軍に参加し、テュイルリー宮殿では民衆による略奪を目にし、パリ市庁舎では共和国宣言を聞いた。彼が目の当たりにした二月革命の光景は、後に改筆した『感情教育』にそのままの形で描かれることになる。 フローベールは再びクロワッセに籠もり『聖アントワーヌの誘惑』を書き始めたが、11月にデュ・カンがアルジェリア旅行から帰ると再び旅行への渇望が起こった。母の同意が得られると翌年まで『聖アントワーヌの誘惑』に専心し、旅行に出る前の1849年9月に完成させると、500枚の原稿を丸4日かけてデュ・カンとルイ・ブイエに読み聞かせた。結果は惨憺たるもので、2人は文章のロマン主義的な熱狂や単調さを非難し出版に反対した。フローベールは大きなショックを受けるが、このとき2人からバルザックのような卑近なテーマに取り組んでみるよう勧められたことが、『ボヴァリー夫人』がフーロベールのうちに胚胎するきっかけとなった。 10月、デュ・カンとともにオリエント旅行に出発。エジプトからパレスチナ、シリア、トルコ、ギリシャ、イタリアを21か月かけて回る。この旅行中に梅毒をうつされて急激に頭髪が抜け、また太ったことで容貌が様変わりした。1851年6月帰国。9月より姦通を題材にした新たな小説『ボヴァリー夫人』の執筆を開始。クロワッセの自室で自身の文体と格闘、偏執的な推敲を繰り返し、執筆に疲れるとパリに出向いて友人のもとを訪れた。ルイーズ・コレとの関係も続いていたが、彼女が私生活に口を挟むことに業を煮やし、1854年に手紙を送って絶縁している。 1856年、4年半の苦闘の末『ボヴァリー夫人』が完成し、デュ・カンの主宰する『パリ評論』に分割掲載され反響を呼ぶ。この雑誌掲載された『ボヴァリー夫人』に対し、1857年1月に検事エルネスト・ピニャールにより公衆道徳違反の裁判が起こされるも、弁護士セナールの名弁論により無罪を勝ち取る。なお、検事エルネストはこの直後にボードレール『悪の華』の訴追を行い、こちらは有罪判決となっている。後年、この検事は匿名で猥褻詩集を出版していたことが判明した。 1857年4月、レヴィ出版より『ボヴァリー夫人』が刊行される。すでに裁判によって知られていたことからベストセラーとなり、フローベールはこれによって一挙にその文名を確立した。批評家には無理解を示す者も少なくなかったが、ボードレールからは好意的な評価を受け取った。この成功により著名人となったフローベールはパリの文壇で多くの交流ができ、とくにサント・ブーヴ、テオフィル・ゴーティエ、ゴンクール兄弟らと交流を持つようになった。その場での言行は『ゴンクールの日記』(岩波文庫全2巻)に多く記されている。
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