「能代ねぶながし」から「天空の不夜城」まで
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「能代役七夕」の記事における「「能代ねぶながし」から「天空の不夜城」まで」の解説
能代観光協会が「ねぶながし会」を結成し、従来の役七夕とは別に観光七夕「能代ねぶながし」の運行を始めたのは、1969年(昭和44年)のことである。改革が叫ばれた背景には1968年(昭和43年)の当番の万町組、翌年の当番の清助町組での組内の人口減があった。この時も能代観光協会が能代七夕改革特別委員会を組織して、五町組から七町組への改編案が議論されたが実現せず、代わりに「ねぶながし会」を組織して観光協会主導で七夕灯籠の運行を試みることとなった。この観光協会主導の「能代ねぶながし」は、1972年(昭和47年)から3年間にわたり東京・銀座まつりで出張運行するなど宣伝に努め、また万町組、清助町組の当番年である1973年(昭和48年)、翌1974年(昭和49年)には役七夕との合同運行も行った。しかし、結局のところこれも長続きせず、両者が別々にポスターを出すなど観光客に怪訝な印象を与える事にもなり、以後消長の歴史をたどることとなる。能代港開港5周年にあたる1979年(昭和54年)には、これを記念して五町組各町から七夕灯籠を運行してほしいという要望が市当局より出されたが、これも実現することなく終わっている。五町組間の人口の不均衡の解消と、開催負担の軽減が主眼だった筈の七町組改編案が暗礁に乗り上げ、当番組以外の町組からも加勢灯籠を出す全市七夕論が再び議論の俎上に上ったが、これも各町組から拒まれる形で実現しなかった。これら改革の動きは必ずしも外部からの介入の手という訳でなく、ねぶながし会の理事長は柳町組の筆頭若長を兼ねており、両者の融合を目指す立場にあったが、町組側が七夕改革と相容れないことがはっきりしていくにつれ、改革案は完全に頓挫してしまった。1988年(昭和63年)から始まったおなごりフェスティバルを企図した能登祐一は、当事者が楽しむための伝統行事である役七夕と、役七夕を観光面で補完するねぶながしとを切り分けるべきであるとする見解を示している。この「おなごりフェスティバル」では、町組からの七夕灯籠は参加せず、地元中学生による一中若、二中若が参加している。 平成の期間を通じて深刻化したのが、地域の人口減少、とりわけ役七夕を担ってきた旧中心街の空洞化と高齢化である。とりもなおさず人口減少と高齢化は担い手不足と資金難に直結することになり、祭りの維持に限界が見えている町も少なくない。こうした中、明確に観光による地域の活性化を目的として始まった行事が、「天空の不夜城」である。役七夕の伝統を踏まえた上で2013年に初開催された「天空の不夜城」は盛況を迎え、かねてより叫ばれながら停滞していた七夕の観光化を大きく前進させた。特に2016年(平成28年)には東京ドームで開催されたふるさと祭り東京に『愛季』が出展、また同年11月26・27日に同じく東京ドームで開催されたフォークデュオゆずのデビュー20周年記念ライブ「ゆずのみ」にも『愛季』が出演し、「天空の不夜城」をアピールしている。「天空の不夜城」が徐々に知名度を高め、能代市の観光イベントとして定着する一方、運行形式のマンネリ化や、観客を市内への宿泊に結び付けられておらず、経済効果の波及に活かしきれていないこと、灯籠を常設保管する施設がないために毎年組立てと解体を繰り返していることによる費用や損傷の問題など、様々な課題も指摘される。さらに、役七夕の関係者の中には、五町組と距離を置いてきた「天空の不夜城」事務局に対し、感情的なしこりがあるともされる。役七夕が祭りの維持に向けた岐路に立つ中で、「天空の不夜城」共々、両者の関係構築を含めた将来像が問われている。
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