「能力」と「知識」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 00:21 UTC 版)
「ヒッピアス (小)」の記事における「「能力」と「知識」」の解説
18. ソクラテスは、正義の徳とは、「能力」なのか、「知識」なのか、その「両方」なのか問う。もし正義の徳が、魂のある「能力」だとするならば、「能力」においてより勝っている魂は、正しいのではなかったかと指摘。ヒッピアスも、同意する。ではもし「知識」だとするならば、より「知識」のある魂は正しいのではなかったかと指摘。ヒッピアスも、同意する。ではもしその「両方」だとするならば、「能力」と「知識」を兼ね備えている魂はより正しいのではなかったかと指摘。ヒッピアスも、同意する。ソクラテスは、他方で、「能力」と「知識」を兼ね備えているこの魂は、より優れたものであって、どんな行為においても、立派なことと恥ずべきことの両方を成す能力を、より多く備えているのではなかったかと指摘。ヒッピアスも、同意する。ソクラテスは、するとこのような魂が恥ずべき行為を成す場合には、その「能力」と「知識」を以て、常に故意に行っているのだと指摘。そして、それら「両方」か、どちらか一方かが、正義に属していることになると指摘。ヒッピアスも、同意する。ソクラテスは、また不正をはたらくというのは悪を成すことであり、不正をはたらかないというのは立派な行いをすることだと指摘。ヒッピアスも、同意する。すると、能力において勝っており、より優れている魂は、それが不正をはたらくような場合には、故意に不正をはたらくことになると指摘。ヒッピアスも、同意する。ソクラテスは、しかし「善い人間」というのは、「善き(優れた)魂」を持っている者のことであると指摘。ヒッピアスも、同意する。ソクラテスは、したがって不正を故意に成すことは、「善い人間」の成し得ることだと指摘。ヒッピアスも、同意する。ソクラテスは、したがって、故意に過ちを犯したり、恥ずべき不正なことを成したりする者というのは、「善い人間」をおいて他には無いと指摘。ヒッピアスは、同意しない。
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