「東の海神 西の滄海」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:32 UTC 版)
延王・尚隆、延麒・六太は共に胎果であり、蓬莱(日本)で生まれ育った。六太は戦乱の中で親に捨てられた経緯から国を統治する者の存在を嫌い、蓬山に帰還した後も王を選べず、蓬莱へと戻ってしまう。その蓬莱で出会ったのが、滅亡に瀕した小松水軍を率いる小松三郎尚隆であった。会った瞬間に王気を感じた六太であったが、前述の理由により誓約を交わすことはなかった。しかし、尚隆の命を懸けて民を守ろうとする姿勢に自らの理想を重ね、絶体絶命の尚隆を助け、延王として十二国へと連れ帰った。 それから20年後、雁国は荒れた荒野から緑の大地へと復興を遂げていた。しかし、元州では治水の権限を王が奪ったままなのに梟王時代に破壊された漉水の堤が復旧されない事に州城の苛立ちが募り、謀反の動きがあるという情報があった。そしてある日、六太の古い親友である“駁更夜”と名乗る少年が玄英宮を訪れることから事態は進展する。妖魔の口の中に入れた赤子を人質に、六太をおどした更夜は六太を元州城へと連れ去り、元州の令尹・斡由は六太に「漉水の堤」を名目として、天網で禁じられている「上帝位の新設」を奏上した。権力者の存在に否定的な六太はこれを拒否し、牧伯(国から地方に派遣される監督官)の驪媚と共に額に赤索条(一つが切れると他の綱が絞まる呪)を結ばれて神仙の力を封じられ、首に赤索条を巻かれた赤子と共に3人で元州城の内宮の赤索条が張り巡らされた牢に監禁されてしまう。 尚隆のもとへも同様の要求が伝えられたが彼がこれを拒否すると、成笙を元州に派遣し、道中で民を募って漉水の頑朴(元州の州都)の対岸に堤を築くよう指示する。そして尚隆本人は正体を隠して元州に行った際に元州師から勧誘を受けた事を利用して元州師に潜り込んだ。国府には宰輔の危機を聞き徴兵を希望する民衆が国内各地から押し寄せ、支援を申し出る郡や郷が沢山現れた上に、尚隆の計略もあって斡由があてにしていた諸侯諸官が宰輔誘拐という強攻策に反発して寝返るなど、事態は斡由に不利に動いていく。更に雨季が始まり、尚隆の計略により雨の中で対岸にのみ堤を築かれる(堤が無いこちら側が水攻め状態に陥る)事に危機を覚えた斡由は州師に対岸の堤を切るよう指示、州師と民の戦いとなり王師が民を守るという、「民のために堤を」を掲げる斡由にとっては皮肉な構図になってしまう。 一方、元州城の内宮では「誰が上に立っても同じ」と言う六太に対し驪媚が「宰輔が選んだ王以外のものが国権を握ってはならない」と返す問答がされていた。驪媚は天帝の罰が及ばない仙が国権を握る事の恐ろしさを六太に説くが、彼には権力者の存在自体を肯定することができなかった。ある日、いつものように押し問答をしていた二人だったが、驪媚が六太を王師まで逃がそうと彼の赤索条を切ってしまう。赤索条が切れた事を知って駆けつけた更夜は驪媚と赤子の血を被って呆然としていた六太を見つける。更夜は再び六太の額に赤索条を締める際に今度は角を外して締めた。その後、六太は血に酔って具合が悪い身体で元州城から脱出しようとするも地下迷宮に迷い込んでしまう。六太はそこで牢に閉じ込められた先の元州侯・元魁と遭遇し、斡由の過去や人となりと、斡由の目的が誉められる事であることを知り、斡由は民のためにならないと確信する。その後、元州城に潜入していた尚隆に見つけられ負ぶわれて迷宮を抜け出せた六太は斡由と対峙し自分の考えを伝えるが、斡由は非を家臣の白沢や更夜へなすりつけようとする。しかし、大僕(王や州侯の私的な護衛)としてその場に紛れ込んでいた尚隆によって全てを断罪され、怒りから、斡由は無防備になった尚隆に斬りかかるが、最期は六太の使令によって瀕死の重傷を負い、尚隆に介錯され絶命する。
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