「声なき声の会」を結成とは? わかりやすく解説

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「声なき声の会」を結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 23:45 UTC 版)

小林トミ」の記事における「「声なき声の会」を結成」の解説

1960年昭和35年5月30日思想の科学研究会仲間や、新安保条約強行採決抗議して前日東京工業大学辞表提出した鶴見俊輔とともに八王子市多摩少年院訪れる。在院者から話を聞くためであったが、帰り電車の中でメンバーから強行採決対す憤り噴出した。このとき隣に座っていた女性客から「私も若ければデモ行きたいけれど、年をとって行けないから、私の分までがんばって下さい」と話しかけられる。この言葉きっかけとして、誰でも参加できるデモ目指す同年6月2日小林所属する別のサークル戦後研究会」の会合文京区本郷レストラン開かれる。そこでデモの計画練られた。グループの名前は岸信介首相発した言葉からとられた。岸は5月28日記者会見で「デモには一般大衆からの批難の声がないが、どう思うか」との質問対し次のように述べた。 声なき国民の声に我々が謙虚に耳を傾けて日本民主政治将来考えて処置すべきことが私は首相に課せられているいちばん大きな責任だと思ってます。今は「声ある声」だけです。 — 岸信介1960年5月28日記者会見 岸の言葉反発して名付けられた「声なき声の会」の最初のデモは、安保改定阻止第一次実力行使の日である6月4日行われることとなった小林映画助監督不破三雄は「誰デモ入れ声なき声の会 皆さんおはいり下さいと書いた横幕後ろ向きに掲げて正午過ぎに虎ノ門出発した。「安保批判の会」のデモ最後尾について歩き出したため、二人後ろには誰もいなかった。その後沿道歩道にいた一般市民徐々に小林らの列に入り新橋解散する頃には300人以上にふくれ上がっていた。手応え感じた小林解散後、すぐに国会戻り鶴見高畠通敏らと合流。「声なき声の会」のデモ再開した。その中には社会運動家近藤真柄九津見房子女性史研究家のもろさわようこもいた。 「声なき声の会」のデモ6月11日15日18日22日7月2日にも行われ参加者毎回5~600人にのぼった小林はそのすべてに参加し会の活動牽引した6月15日には中田喜直作曲し安田武作詞した声なき声行進歌」が歌われた。『週刊朝日1960年7月3日号に「声なき声はたちあがる」という特集掲載されるなど、反響大きく事務局杉並区永福町(現・永福)の高畠通敏自宅置かれた。 「声なき声の会」は北爆抗議して1965年4月24日結成された「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の母体となり、反戦市民運動史上画期的な役割果たした小林自身ベ平連発足呼びかけ人となっている。小林機関誌声なき声のたより」を発行し運動支え97回にわたって行われたベ平連の月1回定例デモにもほぼ皆勤参加した画家としては二科展中心として活躍し定時制高校通信制高校非常勤講師務めた浦安市での見聞をまとめたノンフィクション貝がらの町』『わが町浦安』を著したあと、1988年初めての小説東京ダウンタウン』を出版した安保闘争死亡した樺美智子命日毎年国会前で供花をした小林は、2003年平成15年1月2日十二指腸潰瘍乳がん再発によりこの世去った72歳没。

※この「「声なき声の会」を結成」の解説は、「小林トミ」の解説の一部です。
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