元禄地震 地震動

元禄地震

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 10:00 UTC 版)

地震動

元禄十六年癸未十一月二十三日乙丑刻(二十二日甲子夜丑刻)(1703年12月31日午前2時頃)関東地方諸国は激しい揺れに襲われた。古記録には日付が「二十二日夜丑刻」あるいは「二十二日夜八ツ」と記されているものも多く[8]、当時は一日の境界は厳密でなく、「夜丑刻」と現せば現代の暦法でいう夜半過ぎの翌日、丑刻の事を指す[9][10]

楽只堂年録』には「今暁八つ半時希有の大地震によりて吉保吉里急て登城す、大手乃堀の水溢れて橋の上を越すによりて供乃士背に負て過く、昼の八つ時過に退出す、夜に入て地震止されば四つ時吉保、登城して宿直す」とあり、江戸城大手門付近のの水が溢れるほどであったと記録されている[8]

尾張藩の御畳奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』には「丑二点地震。良久敷震ふ。而震返しあり。」とあり、名古屋において長い地震動があり、余震があったことが記されている。また、公卿近衛基熙の日記である『基煕公記』には「折々ひかり物、白気夜半に相見へ申候」と記され、夜中に発光現象があったことが記されている[11]。更に、甲府徳川家に仕えていた新井白石は『折りたく柴の記』において「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ、…」と地震の体験談を記している。

本地震の約2時間後、同日午前4時ごろに豊後国由布院付近を震央とするM6.5程度の地震が発生した(元禄豊後地震)。震源は浅く、最大震度6程度。府内領で潰家、落石直撃により死者1名[1][12][13]

被害

江戸では比較的被害が軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸長屋町屋などでは建物倒壊による被害が出た。平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら一面泥水が溜っていたなどの記録がある。相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約8,000戸、死者約2,300名[12]東海道の諸宿場でも家屋が倒壊し、川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。元禄地震では、地震動は箱根を境に東国で甚だしく西側は緩くなり、宝永地震では逆に箱根を境に西側で甚だしく関東は緩かったという(『金五郎日記歳代覚書』)。

上総国をはじめ、関東全体で12か所から出火、被災者約37,000人と推定される。地震7日後の11月29日下刻(18-19時頃)、小石川水戸宰相御殿屋敷内長屋より出火、初めは西南の風により本郷の方が焼け、西北の風に変わり本所まで焼失した(『文鳳堂雑纂』、『甘露叢』)。この火災は地震後の悪環境下における二次災害とみられないこともないとされる[8]

この地震で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起した。また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録されている。

『楽只堂年録』に纏められた各幕府への被害報告の合計では死者約6700人、潰家、流家は約28000軒となる[1]。『楽只堂年録』には又、11月29日(1704年1月6日)、勘定奉行荻原重秀が曲淵伊左衛門、鈴木伊兵衛重武に江戸城周囲の破損箇所の修復の事を命じたことが記されている[8]

『片桐甚左衛門扣』には、11月29日の火災による被災者も併せて、地震火事による死者は211,713人と公儀之御帳に記されたとあり[8]、他に地震火事による犠牲者数として、『鸚鵡籠中記』では22万6千人云々[8]、『基熈公記』には26万3千7百人余のよし風聞に御座候とある[14]

震度分布

江戸よりも相模湾沿岸で家屋の倒壊が著しく、震度7と推定される地域も相模湾岸および房総半島南部に集中した。陸奥京都でも有感であった。

街道 推定震度[15]
畿内 京都(e), 奈良(e)
東海道(宿場町) 江戸(5-6) - 品川(5-6) - 川崎(6) - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚(7) - 藤沢(6-7) - 平塚(7) - 大磯(6-7) - 小田原(7) - 箱根(6) - 三島(5-6) - 沼津(5) - - 吉原 - 蒲原 - 由比 - 興津 - 江尻 - 府中(3-4) - 鞠子 - 岡部 - 藤枝 - 島田 - 金谷 - 日坂 - 掛川 - 袋井 - 見附 - 浜松(E) - 舞阪 - 新居 - 白須賀 - 二川 - 吉田 - 御油 - 赤坂 - 藤川 - 岡崎 - 池鯉鮒 - 鳴海 - - 桑名 - 四日市 - 石薬師 - 庄野 - 亀山 - - 坂下 - 土山 - 水口 - 石部 - 草津 - 大津 - 京都(e)
東海道 水戸(5), 銚子(5), 嶺岡(7), 沓見(7), 瀬戸(7), 神余(7), 真倉(7), 東長田(7), 出野尾(7), 藤原(7), 那古(7), 九十九(E), 大多喜(6), 勝浦(6), 勝山(6), 佐倉(5), (5), 関宿(5), 町田(6-7), 八王子(6), 甲府(5-6), 甲西(5), 中富(E), 鎌倉(6-7), 馬入(7), 皆瀬川(6-7), 酒匂(6-7), 熱海(7), 下田(E), 仁科(E), 伊豆大島(E), 八丈島(E), 水窪(E), 尾張大野(e), 名古屋(S), 伊勢(e), 上野(e)
東山道 八戸(e), 弘前(S), 大槌(E), 余目(e), (S), 那須(E), 日光(e), 松代(E), 福島(E), 白馬(e), 飛騨国府(E), 大野(E), 白鳥(E)
北陸道 富山(S), 金沢(E)
南海道 和歌山(e)
S: 強地震(≧4),   E: 大地震(≧4),   M: 中地震(2-3),   e: 地震(≦3)

地殻変動

この地震による地殻変動で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起した。今村明恒によれば房総半島布良(現・館山市)4.7m(大正地震は2.0m)、野島崎5.0m(同1.8m)、三浦半島三崎1.6m(同1.4m)それぞれ隆起したという[1]。また大磯付近も約2m隆起したと推定され、本地震は大正関東地震の震源域も包括していたと推定されている[16]。また、松田時彦らの解析では江ノ島の隆起量は 0.7m程度とされている[17]

延宝元年(1673年)に描かれた房総半島南端の白浜町の絵図と明治17年(1884年)に測量され製作された地形図との比較から元禄地震前の海岸線は現在より約500m内陸にあり、また現在の地形図との比較から大正関東地震前の明治時代は現在より約100m内陸にあったことが判明した。この付近に見られる海岸段丘は最下部に大正関東地震によると見られる変位約2mで狭い巾の段丘の上部に元禄地震によると見られる変位約6mの巾も広い段丘が見られ、さらにその上部に狭い段丘数段と広い段丘の繰り返しパターンがあり、大正関東地震クラスの地震と、数度に一度、元禄地震クラスの特に規模の大きな地震が繰り返されていることが判明した[18]

地震後に暴風雨による洪水を抑えるのが困難になったとする『基煕公記』の記述から本地震で江戸の海岸が沈降した可能性が高いとされ、これは大正地震で羽田から船橋に至る東京湾北岸が1 - 2尺(30 - 60 cm)沈降した事と共通している[16]

このような南上がりの地殻変動は1923年関東地震と同様であり、相模トラフにおいて北アメリカプレート衝上する低角逆断層のプレート境界型地震であることを示唆している。ただし、トラフ軸の走向に対するフィリピン海プレートの南東→北西方向沈み込み方向の関係から相模沖-房総半島までの断層モデルは1923年関東地震と同様に右横ずれ成分を顕著に含む[19][20]

震源断層モデル

大正関東地震(赤塗りの領域)と元禄関東地震(赤点線内の領域)の想定震源域
地震調査委員会,2004

相模湾沖の大正地震の断層モデルに加えて、房総半島が著しく隆起していることから房総沖にもう一つ断層モデルを置くのが妥当とされている[19][21]。さらに推定震度分布のインバージョン解析から、房総沖の震源域は1996年に発生した非地震性のすべり領域を包括しており、ここは短周期の地震波が発生しにくい領域であったとする説もある[22]

規模

マグニチュードは7.9-8.2[1]と推定されているが、古文書による各地の記録に基づく推定震度分布に頼らざるを得ない歴史地震であり、また津波や地殻変動などから仮定される断層モデルなどによる推定であるからその数値は不確定性を含む[19]

河角廣は規模MK = 6.6を与え[23]、これは M 8.2に換算されている。断層モデルによるモーメントマグニチュードはMw 8.1と見積もられている[24]。また津波の規模から津波マグニチュード、モーメントマグニチュード共にMt 8.4、Mw 8.4とする推定もある[25][26]中央防災会議の首都直下地震モデル検討会による断層モデルではMw 8.5と見積もられている[27]


注釈

  1. ^ 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地上投影である震央ではない。
  2. ^ 大正関東地震の震源域に加えて、房総半島南東沖も震源域となる連動型地震であった可能性が指摘されている(詳細は「相模トラフ巨大地震#再来間隔」参照)。

出典

  1. ^ a b c d e f 宇佐美(2003), p65-71.
  2. ^ a b 元禄地震』 - コトバンク
  3. ^ 元禄地震(1703年12月)”. www.bousai.go.jp. 内閣府. 2023年3月13日閲覧。
  4. ^ 安藤雅孝(1974): 東海沖か房総沖で大地震, 科学朝日, 34, No.3, 34-37.
  5. ^ K Mogi, 1980, Seismicit in western Japan and long-term earthquake forecasting, Earthquake Prediction, Maurice, Ewing Series 4, 43-52. A. G. U.
  6. ^ 石橋(2014), p45-46, p177-178.
  7. ^ 小山真人 富士山噴火:過去の前兆や大地震との連動について
  8. ^ a b c d e f g 『日本地震史料 第二巻 別巻 元禄十六年十一月二十三日』
  9. ^ 宇津ほか(2001), p73-75.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m 都司嘉宣(1981)、「元祿地震・津波(1703-XII-31)の下田以西の史料状況」 地震 第2輯 1981年 34巻 3号 p.401-411, doi:10.4294/zisin1948.34.3_401
  11. ^ 『大日本地震史料 上巻』
  12. ^ a b 宇津ほか(2001), p587-588.
  13. ^ 都司嘉宣「元禄十六年十一月二十三日寅刻(1703年12月31日,午前4時)豊後国府内藩領の地震」『歴史地震』第34巻、2019年、147-153頁、2020年12月11日閲覧 
  14. ^ a b 『大日本地震史料 増訂 第二巻』
  15. ^ 宇佐美龍夫(1984) (PDF) 東京大学地震研究所 宇佐美龍夫 「元禄地震の震度分布」 1984年
  16. ^ a b 石橋克彦(1977)。「1703年元祿関東地震の震源域と相模湾における大地震の再来周期 (第1報)」 『地震 第2輯』 1977年 30巻 3号 p.369-374, doi:10.4294/zisin1948.30.3_369
  17. ^ 松田時彦, 松浦律子, 水本匡起, 田力正好(2015)、「神奈川県江の島の離水波食棚と1703年元禄関東地震時の隆起量」 地学雑誌 2015年 124巻 4号 p.657-664, doi:10.5026/jgeography.124.657
  18. ^ 宍倉正展(2005) (PDF) 宍倉正展: 海岸段丘が語る過去の巨大地震, 地質ニュース, 605号, 12-14.
  19. ^ a b c 佐藤良輔、阿部勝征、岡田義光、島崎邦彦、鈴木保典『日本の地震断層パラメーター・ハンドブック』鹿島出版会、1989年
  20. ^ 石橋(1994), p122-129, p142-143.
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