ビートたけしのオールナイトニッポン フリートークの内容

ビートたけしのオールナイトニッポン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 09:39 UTC 版)

フリートークの内容

主に自身の体験談で、番組や映画制作時の裏話から家族や不倫相手までリアルかつ赤裸々な内容だった。その他にも時事ネタやスポーツ、下ネタ、芸人や関係者の武勇伝など幅広い。多くは面白おかしい内容だったが、時には巨人江川卓引退時や自身のファンの在り方など、笑い無しで真剣に語る事もあり、特に江川の引退直後の放送では、早すぎる引退をしきりに惜しんでいた。政治や社会現象を語る時の切り口は鋭く、そのファンは若者に留まらず著名人や知識・文化人にも広まった。

なお、フリートークといっても全てがアドリブという訳ではなく、ネタ帳に話す内容が箇条書きされていた。これは後にラサール石井らが語っている。

番組で取り上げられた人物

この番組で人気を得たり有名になった人物も多数いる。たけしの師匠である深見千三郎や玉乗りの江川マストンの様に、浅草の舞台を主な活動の場にしていた一般的には知名度の低い芸人や、前田隣のように以前は人気があったが廃れてしまった芸人、普通は表に出ない裏方など、当時の若者や一般リスナーには馴染みの薄かった人物が多く紹介された。

歌手・俳優・タレント

村田英雄
ひょんな事から「村田英雄の頭はデカい」という話になり、リスナーからネタを募ったところ村田に馴染みのなかった若年層から人気が爆発、「ムッチーブーム」の火付け役となった。敬意とおちょくりを交え、村田のことは「村田先生」と呼ぶのが通例だった。1981年5月のコーナー放送中に、当時まだ面識の無かった村田からスタジオに電話が入り、初めは録音だと思っていたたけしは、生電話だと知るや応対にたじろいでいた。また、後に村田を正式なゲストとして招き、たけしが村田の親分とともに三波組を叩き斬る任侠物のドラマ「男の盃」を放送したこともある。最初は滑稽なコント劇の予定だったが、村田が本気で乗り気になったため、作家の高田文夫が村田を褒め称える内容に急遽書き換えた。
高倉健
たけしの役者論である「役者は存在感だけあれば下手でも構わない。高倉健だってそんなに上手くは無い。オレもやろうと思えば役者なんていつでも出来るが、役者には漫才は出来ないだろう」をインタビュー記事で読み、「面白い奴だ」と興味を持つ。後に映画『夜叉』でたけしと共演。その際に田中邦衛と漫才をやろうとした等のエピソードや、映画撮影の裏話などがネタにされた。その後も1〜2年に1度は食事を共にしたり携帯電話で連絡を取り合う等、たけしとは高倉が亡くなるまで交流があった。
伊丹幸雄
初め視聴者から番組宛てに、伊丹のアイドル当時の「ウィスパーカード」というメッセージ入りソノシートが届き、番組で流したところ余りのキザな内容に人気が出て本人もゲスト出演。後に『オレたちひょうきん族』の出演のきっかけになる。
安岡力也
当時は少し忘れかけられた存在だったが、様々な映画で脇役を勉めていて、たけしが見掛けていたところから『オレたちひょうきん族』の「ホタテマン」に抜擢し、以後、安岡は再ブレイクを果たした。当時大人だった安岡の強面かつコミカルな個性から、架空の武勇伝などを紹介する。これも大半はハガキ職人の創作。
大橋巨泉
当時たけしと共演が多く、番組での裏話や「無理やりゴルフにつきあわされる」、「無理やりリゾートマンションを買わされる」といったようなプライベートのエピソードがネタにされた。
逸見政孝
当時フジテレビアナウンサー。たけしとはテレビ番組での共演から親交を深め、その人となりがネタにされた。特に当番組に出演した際に、著書『マジメまして逸見です』10冊をリスナーにプレゼントしたが応募が8通しかなく、「自分でハガキを選ぶ」と言う逸見に困ったというエピソードは有名。その後も度々共演し、逸見が亡くなるまで親交があった。
深澤弘
当時ニッポン放送アナウンサー。後に同社専務取締役。「ミスターショウアップナイター」と言われたスポーツ実況の第一人者。たけしが野球中継のゲスト解説で関根潤三と共に度々共演。「ニッポン放送の深澤さん」として、その人となりや裏話が良くネタにされた。
塚越孝
当時ニッポン放送アナウンサー。後にフジテレビに移籍(平成24年逝去)。番組直前の時報前コメントを担当。たけしがそれを受けて「また塚が余計な事を言ってやがるな」等とコメントするのが定番だった。塚越の番組『朝からたいへん!つかちゃんです』も度々ネタにされ、たけし欠席時には代打も務めるなど当番組には縁が深い。
和田弘とマヒナスターズ
ひょんな事から番組内で話題になり、1988年新年会企画などに出演した。後に『北野ファンクラブ』で共演したり、マヒナ40周年記念アルバムでも共演するなど長い付き合いになる。
伊吹二郎
「いのちの女」などのヒット曲を持つ演歌歌手。その人となり等がネタになり番組に乱入した事もある。番組では「銀座の伊吹さん」と呼ばれていた。

お笑い芸人

ポール牧
一連の自慢めいたホラ話。これも大半はハガキ職人の創作。
島田洋七
その途方もないホラ話が度々ネタにされ、ビアガーデン企画などで出演もした。
若人あきら(現:我修院達也
年齢詐称ではないかと番組で疑われ、言動に時代錯誤があるという証言をする。
ホラッチョ宮崎
トロンボーン漫談が持ち芸のピン芸人。当時浅草の舞台で活動。中田ガッタン・ゴットン、江川マストンなどと共に面白い芸名がネタにされた。たけしが弟子におかしな芸名をつけるキッカケになった人物。2016年に話題になったショーンKの学生時代のあだ名「ホラッチョ川上」の由来はここから来たという説が唱えられている。
林家彦六
長屋住まいの噺家としてのエピソードや、独特な話し方のまね、広沢瓢右衛門との天国お迎えレースなどがネタとされた。

スポーツ選手

ガッツ石松
彼にまつわる様々な笑える「伝説」を紹介。村田英雄のコーナーとよく似た内容で、これも大半はハガキ職人の創作。
ジャイアント馬場
馬場の身体がいかにデカいかを面白おかしく度々ネタにされた。
長嶋茂雄
当時いわゆる浪人中で、野球解説の他にも『全英オープンゴルフ中継』やソウルオリンピックのレポーターなど様々な仕事をしていた長嶋のエピソードが良くネタにされた。たけし謹慎中に自ら心配してゴルフに誘ったのに誰を誘ったか忘れ、ゴルフ場で「たけしさんもゴルフですか、誰とですか?」と聞いてきたエピソードは有名。
南牟礼豊蔵
当時阪急ブレーブス在籍のプロ野球選手。その面白い名前とユニークなエピソードが度々ネタにされた。

事務所関係者

副社長(フクシャ)
太田プロ磯野(旧姓:太田)泰子副社長。やり手で知られた副社長の言動を虚実織り交ぜて披露。副社長のことは「フクシャ」と呼ぶのが通例だった。同社磯野勉社長(フクシャの夫)の話題も頻繁に登場した。
菊地忠
当時たけしのマネージャー。極度の酒乱で別名「ジキル菊地」。数々の武勇伝が番組で披露され、後に『オレたちひょうきん族』(歌へたのルーツ)や『ビートたけしのスポーツ大将』に出演するなど有名になった。現在は太田プロ部長である。
高瀬幸途
当時の太田出版編集長。後の同社社長。たけし関連本の出版を多く手がけ、「太田出版の高瀬さん」として学生時代のエピソードなどが良くネタにされた。キドカラー大道の悪口を言って太田出版まで怒鳴り込まれた事もある。
森昌行
当時、テレビ制作会社・スーパープロデュース(現クリエイティブ30)のディレクターで、後のオフィス北野代表取締役社長。『アイドルパンチ』以来たけしの番組を多く手がけ、「スーパープロデュースの森さん」や、たけし独立後は「事務所の森さん」としてデンセンマンの中に入っていた話などが度々ネタにされた。

業界関係者

伊藤輝夫(現:テリー伊藤
当時IVSテレビ制作の辣腕ディレクターで知られ、「IVS伊藤」として番組でもネタにされた。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の総合演出を担当。ビアガーデン企画などに出演した。
桂邦彦
当時TBSプロデューサー。通称「TBSの桂さん」。たけしメインの番組を多数制作しながら全くヒットさせられない桂の珍妙な言動を、虚実織り交ぜて紹介。本人がビアガーデン企画等に出演した事もある。たけしは桂を揶揄しながらも、何とかヒット番組を作り男にしてやろうと考えているフシがあったと見られる。その思いは『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』で結実することになる。
吉田宏
テレビ制作会社イーストの当時ディレクター。現プロデューサー。その肉体的特徴や人となりなどが度々ネタにされた。現在に至るまで番組制作で共演。
景山民夫
当時は構成作家で、たけしと共演が多かった。ヒット作も多かったが潰した番組も多く、番組内で度々ネタにされた。
安原相国
当時たけしと共演が多かった松本伊代のチーフマネージャー。当時の事務所名(ボンド企画)に因んで「ボンドの安」や、何でも仕切りたがる事から「チェック安原」の名でネタにされ番組でも親しまれた。元々は業界用語だった「仕切る」は、ここから一般的になったと言われている。
久世光彦
当時テレビ制作会社KANOX代表で奇才と言われたテレビ演出家。たけし主演のドラマを数多く手がけ、撮影時のエピソード等がネタにされた。番組内では「カノックス久世さん」と呼ばれていた。
南英司
通称「バンドの南さん」。元は「青山三丁目バンド」を率いて『お笑いスター誕生!!』等に出ていたが、バンド名を「足立区バンド」に変え、たけしのバックバンドを務めた。たけしの曲の作・編曲も担当し、テレビ番組でも共演。その人となりや妙なサイドビジネスの話題がネタにされた。
堀切ミロ
当時たけしの担当スタイリスト。奇抜なファッションセンスや宴会好きから「悪魔の館」とネタにされた。2003年9月1日、肝不全のため59歳で死去[14]
長良じゅん
芸能プロダクション・長良プロダクション社長。俳優や演歌歌手が多く所属しており、たけしと共演も多かった事から親交があり「長良事務所の長良さん」、そのオールバックの髪型を「カブトムシのメスみたいな頭」などと、番組内で度々ネタにされた。
大島渚
映画『戦場のメリークリスマス』での抜擢が縁で、トカゲにキューを出す等の一途ながらもトンチンカンな映画撮影の裏話などがネタにされた。後に度々たけしと共演。
小池秀彦
当時ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のディレクター。元カシオペアのメンバー。たけしの楽曲を多く手がけ、「ビクターの小池さん」や「ジャイアント小池」としてレコーディングの裏話などがネタにされた。後に『北野ファンクラブ』の「亀有ブラザース」キーボードとしても共演。

家族その他

たけしの家族
実母・北野さき、実父・北野菊次郎との少年時代のエピソードや小遣いせびりの手口などがネタにされた。また、妻の北野幹子(元漫才師)や娘の北野井子、長男の篤などとの家庭生活での話題も多く語られた。他にも当時ペンションを経営していた安子(姉)の話題や、北野うし(祖母)、北野重一(長兄)や北野大(次兄)、泣き売をしていた叔父の北野右吉、義弟(幹子の弟)の松田秀士など、さながら一族縁者総出演の感があった。
北の屋の板さん
別名「スネーク田中」。元は福井県敦賀市で働いていたが、たけしが映画『夜叉』のロケで訪れた事から知り合いスカウト。たけしが東京・四谷に開いた居酒屋・北の屋の店主となる。その人となりや女癖の悪さなどが番組でネタになり、後に『ビートたけしのスポーツ大将』や『北野ファンクラブ』にも出演した。水道橋博士ホームページによると現在でも交流がある模様。
茜のマスター
神宮外苑で「スナック茜」を経営。現在も続く草野球リーグ「茜リーグ」の主催者。たけしと軍団が草野球帰りに茜を度々利用し、その縁でネタにされた。後に『北野ファンクラブ』にも出演した。
水島新司
草野球が縁で知り合い、その後度々共演。その人となり等がネタにされ、長男の水島新太郎(当時おぼっちゃま)を弟子に取るなどした。
おタカさん
ツービートの下積み時代にビートきよし同棲していたオカマダンサー。元自衛隊員。営業を共にこなすなど寝食を共にした。同棲の様子や武勇伝などがネタにされた。
タンス屋の若旦那
たけしの学生時代からの友人で、下積み時代に彼の家に居候していた事もある。たけしにホモ行為を迫ろうとした事があり、「今度は北野君の番」のフレーズで有名。度々ネタにされた。たけしとは現在も交流がある。
マチコちゃん
当時のガダルカナル・タカの彼女。JAC出身で、タカとの生活ぶりやモモレンジャーに入っていた等のエピソードが度々ネタにされた。『スポーツ大将』の草野球企画にてたけし軍団チーム側のスコアラーを務めていた事もある。

各種企画

主なコーナー

  • たまきん全力投球、おなきん全力投球
    • 番組草創期の目玉コーナー。タイトルは当時人気絶頂のたのきんトリオの『たのきん全力投球!』(TBS系)をもじった物。合理的かつ画期的な男性の自慰行為の方法(おなきん〜では女性の自慰方法)を募集するというもの。「アソコをトイレットペーパーに差込み、紙を出しながら芯を回転させ、アソコと芯の摩擦で快楽を生む」ローリング・ドリーマー[15] や、「池の中に腰下ぐらいまでつかり、アソコの先端部に鯉の餌である麩を付けたバンドを装着させ、鯉が麩を食う時の口使いで快楽に耽る」方法、さらには「自動車のチェンジレバーの代わりにアソコを突き出しておき、何も知らずに乗り込んできた女性が激しくギヤチェンジ操作を行う感触で快感を貪る」方法など、大半は絶対に実行不可能なものだった。女子禁制の様なコーナーであり、当時女性リスナーから「たのきんトリオのコーナーと勘違いして聞いてしまった」という苦情も寄せられたという(真偽不明)。番組終了後の復活特番ではスタッフ等から「くれぐれも触れないように」と釘を刺される事もある過激なコーナーだった。
  • 不幸の尺八コーナー
    • たけしが練習しても上手く吹けない尺八をリスナーに送りつけ、吹いた録音と証拠写真を送り返すという、初期の名物コーナー。不幸の手紙に因んで名付けられた。
  • 鶴太郎の色物の広場
    • 初期に番組後半に行われていた鶴太郎一人のコーナー。たけしの休憩名目だったが、殆どの場合たけしの乱入で強制終了させられた。
  • 弟子やめさせコーナー
    • 一番弟子のそのまんま東(現:東国原英夫)とワクチン丸山を辞めさせるためのいやがらせを募集するコーナー。たまきん全力投球の実験台にする、参院選の際コロムビア・トップの選挙事務所付近で洗濯洗剤トップの街頭CM(トップは落ちる!)をやらせるなどの案が寄せられた。寄せられたネタの内、僅かな所持金で全国各地のリスナーを訪ねる「不幸の弟子コーナー」が実際に行われた。そのまんま東は、宮崎県知事就任後に出演した「東国原英夫のオールナイトニッポン」でこの企画について「全国の様々な所に行って仕事をして給金を貰い、また別な場所に行くという電波少年の様なコーナーだった」回顧している。
  • デカアタマコーナー
    • 村田英雄を再ブレイクさせた企画。大御所歌手・村田にまつわるトンチンカンなエピソードを紹介。当初は実話だったが、たけしとハガキ職人による荒唐無稽な創作が大半。「三波三橋、村田デカ頭コーナー」として始まったが、村田先生はジョークとして流してくれそうだが、他の2人は怒りそうだと、リスナーからは村田ネタばかりが寄せられ、村田英雄だけのコーナーとなりムッチーブームを生み出した。
  • 伊丹幸雄コーナー
  • ガッツ石松コーナー
    • いわゆる「ガッツ伝説」ネタを募集するコーナー。後のはなわによる物とほぼ同様の内容。番組初期のコーナーだが中期に復活。
  • フロッグマン・コーナー
    • 正式なコーナーではないが、1984年2月に海外からリスナーへの土産に買ってきた、風呂場用の玩具人形「フロッグマン」を紹介し、泳ぐ音だけを放送するなどしたところ火がつき、我こそはフロッグマンを貰おうとネタを投稿するリスナーが続出した。その総数は百数十万通に及ぶ。自分が如何にフロッグマンに憧れているかの投稿を競ったり、「フロッグマン想像図」を送るなどした。1984年の当番組を代表する話題であった。後に「フロッグマンの父」も登場。
  • ニューウェイブ寿司屋コーナー
    • 芸能人のスキャンダルや時事ネタなどを寿司屋に当てはめたパロディーコーナー。後に「お寿司屋さんコーナー」に改題している。
  • カッペ発見法
    • 上京したての地方出身者(カッペ)を見分ける方法を投稿するコーナー。
  • あれはいくらだコーナー
    • スケベ椅子など、一般販売店では売られていない商品の値段を調べるコーナー。
  • ラジオ体操コーナー
    • 番組中期の1985年頃に行われていた、午前2時の時報と共にラジオ体操をするというだけの企画。夏休みにはリスナーを集めてのラジオ体操大会も実施された。なお、当時たけしの追っかけをしていた玉袋筋太郎はこの収録前日、仲間と共に実家の隣の小学校にあったラジオ体操の看板をスタジオに持ち込もうとして、警察に補導された経験を持つ[16]
  • 中年エレジーコーナー
    • 中年の悲哀をネタにするコーナー。「〜したまでは良かったが」がお決まりのフレーズ。
  • 3人の息子コーナー
    • たけし高田文夫すがぬま伸それぞれの息子たちを比べる、いわゆる三段オチギャグコーナー、高田さんの息子は優等生、たけしの息子はお調子者、すがぬま伸の息子はいじられ役の割り振りで、すがぬま伸かたけしの息子でオチとなる。
  • ケーシー高峰コーナー
    • ケーシー高峰の十八番である医療ダジャレネタを募集するコーナー。番組中期のコーナーで一時なくなったが、後期に復活した。
  • フルチンは笑えるコーナー
    • 神主裁判官など「上半身はフォーマルで下半身がフルチンだったら」という物を募集するコーナー。後にノーパンも追加された。
  • 自己診断コーナー
    • 「〜した時つい〜してしまう」事を募集するコーナー。「クラスの嫌われ者」や「更年期」など幾つかパターンがあった。いわゆる「あるあるネタ」の嚆矢。
  • 新製品CMコーナー
  • マヌケなものコーナー
    • 特に枠を設けず、世の中のマヌケな物を募集するコーナー。ほぼ番組の全期間に渡って存続した。
  • 恐怖映画「蛇」コーナー
    • 当時公開された恐怖映画のCMが、仰々しく長いキャッチコピーと単純過ぎるタイトルのギャップの妙にヒントを得て、日常品に恐怖映画ばりの仰々しいキャッチコピーを付けるコーナー。
  • 掟破りの逆グルメコーナー
    • 当時のグルメブームに対抗し、不味い店を面白おかしく紹介するコーナー。
  • 使ってみましたコーナー
    • 主に通販商品やアイデアグッズをネタに、商品を使用した体験談を紹介するコーナー。
  • とどめの一言ビクターの犬コーナー
    • 5代目古今亭志ん生が、自身のギャグの意味が分からず首をかしげていた客に「何考えんだ蓄音機の犬!」と叫んだ故事に因んで名付けられた、突っ込みの言い回しを考えるコーナー。ハガキ職人・道上ゆきえの提案で始まった。
  • 比較人類学・一般人対マヌケコーナー
    • 特定の状況に対する「一般人」と「マヌケ」の対応の違いをネタにするコーナー。
  • こんな民宿はイヤだコーナー
    • 民宿に関するエピソードをネタにするコーナー。
  • こんな役はイヤだコーナー
  • カレーがうるさいコーナー
    • 世の中のあらゆる事象についての含蓄ある表現を募集するコーナー。たけしが少年時代、食事のカレーライスを食べかけで放置していたのを母親から「うるさいよ!このカレー(カレーが食べかけで片付けられない状態のこと)」と注意されたエピソードを番組内で語ったことから企画された。
  • ジキル菊池とらばーゆコーナー
    • たけしと軍団が太田プロダクションから独立した後の菊池マネージャーの進路について考えるコーナー。
  • きよし殴ったろかコーナー
  • 東の印税利用法・これは情けない商売コーナー
    • 「情けないが成立しそうな商売」を募集するコーナー。そのまんま東が著書『ビートたけし殺人事件』で得た印税の使い道について番組内で盛り上がったことから企画された。
  • 北野観光「黒い風船」ツアー
    • とんでもない架空のツアー旅行企画を募集するコーナー。コーナー名は日本旅行の国内ブランド「赤い風船」のもじり。
  • イタリア人「チンポブラリーノ」コーナー
    • 面白い外国人名を募集するコーナー。殆どが下ネタだった。
  • 祭り囃子が聞こえるコーナー
    • 知られざる架空の奇祭を募集するコーナー。
  • 「動け馬場」コーナー
    • プロレス会場に「動け馬場!」という垂れ幕があったというネタから派生した、垂れ幕の文句を考えるコーナー。
  • マジックのタネはこれだコーナー
    • 元々はMr.マリックのタネを推理するコーナーだったが、次第に手品師を題材にした架空のタネを考えるコーナーになった。
  • 番組を潰したのはアイツだコーナー
    • テレビ番組打ち切りの戦犯を募集するコーナー。
  • 犬田ワン・コーナー
    • 当時たけしがテレビ番組で扮していた「犬田ワン」や「猫田ニャン」などの動物キャラ名を募集するコーナー。次第に「誰田お前」などのように真ん中に「田」があれば何でも良くなった。
  • この世の物とも思えぬあの世コーナー
    • 「馬力のある牛」などの逆説的表現を募集するコーナー。
  • 唯一の汚点コーナー
    • 有名人や著名人にとって、その人生において汚点になるであろう出来事を募集するコーナー。たけしもネタにされた事があり、「漫才コンクール京丸・京平に負け2位」「話題賞に負けた」等、その都度「大きなお世話だ」とたけしが返答している。
  • 「私の半年間」コーナー
    • フライデー襲撃事件による半年の番組中断期間に何をしていたかを募集するコーナー。自分が如何に再開を待ちこがれていたかや、中には「山ごもりしていたので何があったか知りません」など、多くが復帰後のたけしを激励するものだった。
  • 軍団パンクラチオン
    • 軍団とセピアによるシャッフルコンビのネタ対抗戦。ネタがリスナーに募集された事もあった。
  • タケちゃんを大学生にしようコーナー
    • 1984年に、たけしの「大学を受験する」という宣言に対し、その受験校を推薦・勧誘するというコーナー。たいがいはそこがいかにレベルの低い大学かを紹介する内容だった。

送られてくるネタがワンパターンだったり、内容が過激すぎたりで、企画倒れに終わった短命なコーナーが多く、1ヶ月続けばいい方であった、わずか1回で終わったコーナーも数知れずある。

番組招待企画

ネタの出来映えの良いハガキ職人を番組に招待する企画。当初は印象重視だったが1985年から採用毎にポイントで記録し、年に1回から2回ほど番組に招待していた。年末・年始の場合は「忘年会」や「新年会」、夏場の場合は「ビアガーデン」と称した。ニッポン放送社屋屋上に特設ビアガーデン会場を設置したり、当時たけしが経営していた居酒屋・北の屋から中継した事もあった。ハガキ職人以外にも遊びに来た業界関係者、仕込んだイベントコンパニオンレースクイーン等も参加。飲み物や料理は主にスポンサーとのタイアップや参加者の持ち込みだが、北の屋の板さんが現場で作る事もあった。

なお初のビアガーデンは本来、番組本「三国一の幸せ者」のベストセラーを記念して企画されたもので、リスナー招待企画ではなかった。花を添える水着ギャルを募集するなど準備万端だったが、当日が雨天で無念の中止となった。

ツアー企画

スタジオ以外から中継する企画。場所柄に相応しくない仮装スキー場海水浴場へ行く「悪魔のスキーツアー」(1988年1月)や「地獄のサマービーチツアー」(1988年8月)、当時たけしが経営していた北野印度カレーのカレーショップの宣伝を兼ねた「軽井沢おかまツアー」(1987年8月)などがあった。事前に一般参加者を募り生放送で行われた。他にも新島1985年7月)や中禅寺湖畔(1989年6月)からの中継もあった。

ロケ企画

たけしがスタジオにおり、軍団・セピアが外から中継する企画。真冬のニッポン放送屋上に「たけちゃん神社」を作り軍団がパンツ一丁でお参りに行く(1982年1月)、生放送中にリスナーに島田洋七のラーメン屋へ食べに行くよう呼びかけ店の様子をレポートに行く(1987年9月)等があった。

ラジオドラマ企画

初期の頃に行われた企画。村田英雄を招いての任侠ドラマ「男の盃」二部作や、不幸の尺八コーナーから派生した「遅かった尺八」、「荒野の1ドル尺八」などがあった。たけし・高田・軍団などが出演し、効果音に凝るなど本格的な作りの物を事前収録して放送された。

連動企画

  • 日本アカデミー賞・鞍馬天狗事件(1986年2月)
    • たけしが第9回日本アカデミー賞で、助演男優賞(『夜叉』)、ニッポン放送話題賞・俳優部門(『哀しい気分でジョーク』)でノミネートされ、表彰式の模様を当番組でも放送した。たけしは鞍馬天狗の扮装で現れ、一同から大顰蹙を買ってしまった。その時の裏話もあわせて放送。
  • たけしの跳び箱オリンピック(1988年12月)
    • 1988年12月1日に「たけしの跳び箱オリンピック」という企画が放送された。『ビートたけしのスポーツ大将』との連動企画で、少年時代から苦手としていた跳び箱の克服に成功する。森末慎二をゲストに迎え、直前の様子など放送全編を使っての特番だった。同年12月14日にスポーツ大将でも放送。

単発企画

  • 賞金5万円企画(1981年7月)
聴取率トップの社長表彰で貰った賞金5万円をリスナーに預け、少しずつ好きな事に使いながら次のリスナーにリレーしていく企画。企画段階では大いに盛り上がったが、最初のリスナーが残金を400円にしてしまい、1回で終了してしまった。
  • 「札幌の女」激白企画(1982年1月)
元々は札幌の高級クラブで、たけしが島田洋七のお気に入りのホステスを横取りした事に端を発する。その後の生放送にホステスを「札幌の女」と称して呼び、たけしをスタジオから閉め出して、たけしとの一夜の様子を生々しく暴露した。たけしは一族から大顰蹙を買った。
  • ラロトンガ島ニセ生放送(1982年9月)
ラロトンガ島での映画『戦場のメリークリスマス』撮影のため番組が事前収録になった事を逆手に取り、現地からの生放送と偽った企画。急遽海底ケーブルを繋いだという体で、衛星中継ばりに音声にタイムラグを出すなど細かい演出でリスナーを欺いたが、番組内で鶴太郎(有楽町のニッポン放送にスタンバイしているという設定で出演)が暴露。もちろんシャレだった。
  • 井手らっきょ先生のカラ出張企画(1986年5月)
井手らっきょがウソのスケジュールで妻を欺いて浮気をしている事を利用し、井手だけ偽のスケジュールで浮気をさせておいて生放送で暴露した、一種のドッキリ企画。井手にスタジオまで電話をさせ、あわてふためく様子まで放送した。翌週には後日談も放送。
  • ノックバット大道裁判(1986年5月)
当時たけしの弟子だったキドカラー大道古田古が、『スポーツ大将』での収録中に起こしたトラブルを裁く企画。軍団内で検察と弁護に分かれて裁判形式で番組を進行し、判決で古田は遠島の刑となった。
  • 二代目・亀頭白之助襲名披露(1988年11月)
たけしの弟子だった亀頭白之助が辞めるのに伴い、水道橋博士を「二代目・亀頭白之助」に襲名させる企画。仰々しい襲名披露宴を執り行い、実際に亀頭白之助に芸名を変更して芸能活動を行っていた。しかし、玉袋筋太郎とコンビを組んでいたために、所属事務所から亀頭と玉袋では仕事を取りにくいと言われ、3ヶ月で元の芸名に戻った[17][18]

プロレス企画

1987年に旗揚げされた「たけしプロレス軍団(TPG)」をプロデュースする企画。元は東京スポーツ誌上で語られた企画だったが、番組内で練習生を募集したり、マサ斉藤を招いて公開オーディションを行い、その模様を放送するなどした。練習生の中には後のスペル・デルフィン等がいた。詳細はたけしプロレス軍団の項を参照。

たけし欠席時企画

  • たけしが1986年12月にフライデー襲撃事件を起こした際には、上柳昌彦アナと高田文夫が事件と正面から向き合う企画を生放送、リスナーからの声を受け止めた。
    • これ以降、翌年の3月19日まではオーディション番組「お笑い新人類大集合!!」(1987年1月いっぱい)やビートきよしやしきたかじん円広志片岡鶴太郎明石家さんまなどのスペシャルパーソナリティで繋ぎ、3月26日からは代理パーソナリティを大竹まことが務めた。ただし当初は、ピートこけしと名乗っていた。この期間の番組表タイトルにパーソナリティ名はなかった。
    • 中断期間中に「オールナイトニッポンオーディション」という、パーソナリティー争奪ゴングショーが開催された。主に地方のパーソナリティーを選抜するもので、この中に田中義剛清水圭・和泉修がいた。後に彼らは正式にパーソナリティーに起用されている。
  • 中断期間以外にも、本人が番組をドタキャンしてしまう場合があった。1989年7月には1ヶ月丸々休む事も。多くは総集編の放送や軍団が穴埋めをしたが、爆笑問題山田邦子池田貴族、上柳アナなど代打を立てる事もあった。
    • 伊集院光は金曜2部のパーソナリティ時代に、過労で倒れたたけしの代打として、当時自らがプロデュースし話題となった芳賀ゆいと共に『伊集院光と芳賀ゆいのオールナイトニッポン』を放送。(1990年9月6日)

  1. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、49頁。 
  2. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、49-50頁。 
  3. ^ a b 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、50頁。 
  4. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、50-51頁。 
  5. ^ a b c d 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、51頁。 
  6. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、51-52頁。 
  7. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、52頁。 
  8. ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』小学館、2023年、52-53頁。 
  9. ^ a b たけし、オールナイトニッポン参入の理由は“ほかの漫才師への不満”「ブームももう終わりだなと…」」『スポーツニッポン』、2019年9月17日。2019年9月18日閲覧。
  10. ^ a b c 柳澤健『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』集英社、2016年、319-321頁。ISBN 978-4-08-781610-5 
  11. ^ 1984年1月〜1985年10月は水曜未明にあたる火曜1部を担当している。
  12. ^ 実際の番組終了は1982年7月31日。
  13. ^ 1987年10月からは夜ワイド『巨匠・高田文夫のラジオで行こう!』、1989年4月からは昼ワイド『文夫と明子のラジオビバリー昼ズ』と兼務。
  14. ^ “堀切ミロさん死去/スタイリスト”. 四国新聞. (2003年9月2日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20030902000429 2019年10月25日閲覧。 
  15. ^ プロレスラージャンボ鶴田がデビュー当時に歌った『ローリング・ドリーマー』から。
  16. ^ 『本人本01 ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』太田出版、2008年、pp.123。玉袋筋太郎インタビュー
  17. ^ 西条昇『トウキョウコメディアンの逆襲』光文社文庫、1998年、p.120
  18. ^ 『本人本01 ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』太田出版、2008年、pp.46-47。水道橋博士インタビュー。
  19. ^ ナンシー関「文庫版あとがき」『ビートたけしのおもわず幸せになってしまいました』扶桑社文庫、2001年、pp.238-241
  20. ^ 「関直美/ナンシー関 <余談だらけの>年表」『ナンシー関大全』文藝春秋、2003年、p.234
  21. ^ 2000年5月1日東京新聞夕刊「俳優・コメディアン・構成作家「マルチ才能」売り出し中 宮藤官九郎さん」
  22. ^ 伊藤愛子『視聴率の戦士 テレビクリエイター伝説』ぴあ、2003年、p.115
  23. ^ さくらももこ『(漫画版)ひとりずもう』第3回。小学館、集英社。
  24. ^ 『ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』太田出版、2008年、p.2
  25. ^ 西村賢太「東京者がたり 第11回 六本木」『小説現代』2013年2月号、p.204
  26. ^ 北野武『時効』ロッキング・オン、2003年、p.38
  27. ^ 小林信彦『笑学百科』新潮文庫、1985年、pp.22-30,314-317
  28. ^ 小林信彦「一九九〇年・<笑い>の十代ニュース」『コラムにご用心 エンタテインメント評判記 1989〜92』筑摩書房、1992年、p.117
  29. ^ a b c “たけしが漫才をやめた理由「あれが出なくなった時に…」”. スポーツニッポン. (2017年4月6日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/04/06/kiji/20170406s00041000469000c.html 2017年4月7日閲覧。 
  30. ^ a b c “たけし 漫才やめた理由「言葉が出なくなった」”. デイリースポーツ. (2017年4月6日). https://www.daily.co.jp/gossip/2017/04/06/0010072594.shtml 2017年4月7日閲覧。 
  31. ^ 北野武『余生』ロッキング・オン、2001年、p.176
  32. ^ 【1980年代ラジオ伝説】第十五回 「計算尽くの暴れん坊 大竹まことの濃くて短い、深夜放送時代」”. Nicheee! (2009年11月10日). 2020年10月9日閲覧。
  33. ^ ANN50周年記念で「ビートたけしのオールナイトニッポン」が一夜限りの復活!





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