浮川和宣
浮川和宣とは、株式会社ジャストシステムの創設者、および、日本語ワープロソフトの代表的製品である「一太郎」の開発者として知られる実業家である。2009年に株式会社MetaMojiを設立、MetaMojiの代表取締役社長に就任している。
ジャストシステム社の基幹は日本語処理である。世界言語の中でも屈指の奥深さを誇るといえる日本語処理において、同社の日本語処理システム「ATOK」は長らく不動の位置を占めていた。同じく全文検索用ソフトウェアである「Concept-BASE」や、IBM社と共同開発している音声認識システムなども含めて、今なお第一級の品質を誇っているといえる。

浮川和宣は1949年5月5日に愛媛県新居浜市で生まれた。1973年に愛媛大学工学部を卒業し、1979年7月に、妻となった橋本初子とふたりでジャストシステム社を創業した。そして1981年に株式会社化を果たしている。企業の姿勢としては、どこの資本系列にも属さない独立系ソフトウエア会社として、また、社内環境の充実した企業として、しばしば特筆される。また活動拠点とした地域を首都圏(東京や大阪)でなく徳島市に定めた点も、「企業の本社は東京や大阪であるべきだ」といった固定観念を払拭するものとして評価される。企業の姿勢としては、ユーザーへの真摯な対応ぶりは(例えば一太郎ver.4.0にバグが発見された際には、対応としてver.4.1、4.2、4.3までの改訂版が十万個単位で無償で配布されたことに代表されるように)、後々も言及されている。
また、浮川和宣の妻である橋本初子の存在も、稀有な女性プログラマーとして、ジャストシステム社の代表取締役専務として、浮川和宣の相棒として際立ったものとなっている。橋本初子と浮川和宣は、1969年に入学した愛媛大学工学部電子工学科で知り合った(同学科において女性は彼女一人だけだった)。在学中にプロポーズにまで至ったらしいが、1973年に互いに大学を卒業して後は、浮川和宣は西芝電機へ、初子は東京で高千穂バローズの相模原研究所に入ることとなった。1975年、二人は結婚することを決め、初子は姫路にあった浮川の社宅で暮らすことになった。1979年、独立を決意し、浮川和宣は西芝電機を退職して二人で徳島に戻った。
浮川和宣は当初から日本語処理機能の開発に焦点を当てていた。妻・初子には、技術とノウハウと充分に備わっていた。開発には苦節を要したが、東京のデータショーに出展するや否や評判となり、それをきっかけに一躍日本語変換機能開発の寵児となった。やがて本格的なワープロソフトの作成に乗り出し、アスキー社の下請けなどを経た後に独立した。そして浮川の率いるジャストシステム社は、ワープロソフトメーカーとして日本一の企業となる。
浮川和宣は、1991年9月にコンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)の副理事長に就任し、2000年6月に日本パーソナルコンピュータソフトウエア協会(JPSA)名誉会員に就任した。2002年6月には内閣府・総合科学技術会議知的財産戦略専門調査会委員に選出されている。
2009年、ジャストシステムの代表取締役社長を辞して妻初子と共に同社を退職。二人で新たに「株式会社MetaMoji」を設立した。浮川和宣・初子の今後の動向は、ますます注目を集めている。
(更新:2010年3月)
参照リンク
株式会社ジャストシステム
株式会社MetaMoji
浮川和宣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/04 20:41 UTC 版)
うきがわ かずのり 浮川 和宣 | |
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生誕 |
1949年5月5日(75歳)![]() |
国籍 |
![]() |
出身校 |
愛媛県立新居浜西高等学校 愛媛大学工学部電気工学科 |
職業 | プログラマ・実業家 |
著名な実績 |
ジャストシステム創業者 一太郎開発者 |
配偶者 | 浮川初子 |
浮川 和宣(うきがわ かずのり、1949年5月5日 - )は、日本のプログラマ、実業家。ジャストシステムの創業者であり、一太郎の開発者としても知られる。愛媛県新居浜市生まれ。元日本パーソナルコンピューターソフトウェア協会会長。
経歴
父は機械系エンジニア、母は市役所勤めの地方公務員。新居浜市立東中学校、愛媛県立新居浜西高等学校、愛媛大学工学部電気工学科卒業[1][2]。後の妻であり、元ジャストシステム代表取締役専務(のち副社長を務めたあと、2009年10月29日辞任)である橋本初子とは大学在学中に知り合う(彼女は同大学同学部電子工学科唯一の女子学生であった[3])。
1973年3月に大学を卒業後、初子は上京し高千穂バローズ(現 BIPROGY)の相模原研究所に、浮川は東京芝浦電気(現・東芝)のグループ企業である西芝電機に入社。二人は1975年に結婚し、初子は退職し姫路市の浮川の社宅に暮らすことになった。
初子は地元の小さなオフィスコンピュータシステム販売会社に再就職し、浮川は初子の才能を見込んで独立を決意。1979年に西芝電機を退職して徳島に戻り、同年7月に初子とともに徳島市内の初子の実家でオフィスコンピュータシステムの販売会社「ジャストシステム」を創業。1981年6月に株式会社化。
初子とともにコンピュータの日本語処理機能の開発に尽力し、当時としては珍しいかな漢字変換システムを8ビットの CP/M 上で作り上げた。1982年10月に東京の展示会に出品されるとNECの技術者の目にとまり、ワープロソフトの開発を受注。1983年にNECのPC-100で「JS-WORD」が採用されたのを契機に本格的な開発に乗り出し、アスキーの下請けを経て独立。1985年8月には一太郎として発売され日本全国を席捲することになる。浮川はスペースキーで漢字に変換し、もう一度スペースキーを押すと次の候補が出る、という現在の標準的な日本語変換方法を考え出した[4]。
1990年6月に日本パーソナルコンピューターソフトウェア協会(JPSA)の会長に[5]、1991年9月にコンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)の副理事長に、2000年6月に日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会(JPSA、現コンピュータソフトウェア協会)の理事に就任。2002年6月には内閣府・総合科学技術会議知的財産戦略専門調査会委員に選出されている。
しかし、2009年4月にジャストシステムが経営不振によりキーエンスの傘下に入った関係から、同年6月にジャストシステムの社長を福良伴昭に譲り同社代表取締役会長に就任。さらに同年10月には会長も辞任し、同社の役員から退くこととなった[6]。その後、同年10月30日には、夫人とともに新たに株式会社MetaMoJiを設立している[7]。
脚注
- ^ “第138回 株式会社MetaMoJi 代表取締役社長 浮川和宣”. 起業・会社設立ならドリームゲート (2011年12月9日). 2023年6月13日閲覧。
- ^ “MetaMoJi社長 浮川和宣(3)瀬戸内”. 日本経済新聞 (2022年3月3日). 2023年6月13日閲覧。
- ^ “一太郎はこうして生まれた|一太郎2010・JUST Suite 2010 スペシャルコンテンツ|JustSystems”. www.justsystems.com. 2023年6月13日閲覧。
- ^ 大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」 - PC Watch、2011年2月3日
- ^ JPSA20年のあゆみJPSA
- ^ 風穴 江のカッティングエッジ】ジャストシステムに何が起こったのか? - PC Watch、2009年11月4日
- ^ ジャストシステム創業者、新会社「MetaMoJi」を設立 - CNET Japan、2009年12月9日
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固有名詞の分類
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