アジア進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:39 UTC 版)
1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演。20分のゲスト出演だったが、番組視聴率は90%を超えた。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた。当時の香港にもかつての日本の歌謡界と同様、歌う時に体を動かす人があまりおらず、現地の新聞に"ボディアクション""ボディランゲージ"とやたら書かれた。西城からの影響で現地の歌手がそれをみんな真似し始めた。9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催。現地のプロモーターから「香港の人は評価がストレートだから一回目でブーイングが来たら二度と香港では出来ないよ」と言われ、大変な重圧の中で歌い切り、翌日の新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる。当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった。 1982年9月22日 - 9月24日の3日間、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)。当時の香港は教科書問題で揺れ、同時期コンサートを予定していたさだまさしと三原順子は中止を余儀なくされたが、西城だけは特別扱い。「僕は広島で生まれ、原爆ドームを見ながら育った。平和を思う気持ちは人一倍です。僕は平和を求める歌手として香港に来ました。歌に国境はない。あってはいけない」という西城のコメントが香港の新聞に大きく掲載された。香港メディアも「歌と政治は切り離すべき」という論調を載せ、平和の使者としての西城を歓迎した。 日本のファンも熱狂的だが、香港の人たちの西城の愛し方は尋常ではなく、コンサートが開催される半年も前から書店には西城の特集を組んだ芸能誌『好時代』がうず高く積まれ、『愛と誠』が上映され、それまでの西城のコンサートの模様を再編集し、ゴールデンタイムに流すハシャギようで、香港の街はヒデキ一色。コンサートで客席に人指し指を向けようものなら、それまで踊り狂っていた子がワーッと泣き出しそれも男の子たちで、西城も「はじめは信じられない世界を見ているようだった」と話した。アジアでは圧倒的に男性客が多かった。香港で西城がダントツ人気を得た理由を香港観光協会は「香港の人間はメンタリティーの部分で、欧米人よりも日本人によく似ています。ジャズよりも当然、日本のポピュラーソングの方がなじみやすいし、リズムとかイントネーションもこっちにマッチしています。香港のショービジネスはアメリカ型というか、下積みから叩き上げていく、いわば本格志向なんです。逆にいうとアイドルの存在が香港にはないんですね。西城はジェネラルだし新鮮さがある。おまけに声量はあるし、歌がうまい。歌プラスショーとでもいうか、仕掛けのあるステージも香港の若い人たちを熱狂させるに充分でした」などと解説した。アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった。アニタは「日本で西城秀樹さんと共演したことが生涯最高の思い出」と話していた。ジャッキー・チェンやサミュエル・ホイ、ジョイ・ウォンなど、早くから西城のステージを観に訪れた。ジャッキーは西城の追っかけのように客席の一番前で三脚まで置いて写真をバチバチ撮り、ステージの上からだとはっきり見えないので、現地のマスコミだと思っていたら、コンサートの終了後に控室に挨拶に来た。ジャッキーはもう香港でも大スターで、西城も『酔拳』とか観ていたから驚き、すぐに食事に誘われ、ジャッキーはどんどん大スターになっていったが、以降もコンサートの時には必ず来てくれた。彼らとは商売抜きで音楽だけで繋がっている関係。彼らが来日した時は、自宅に招待したりし酒を酌み交わした。それはアマチュア時代に年上のバンド仲間と純粋に音楽のことだけで付き合っていた頃の記憶と重なった。ジャッキーとは映画での共演は無かったが、1987年8月1日に滋賀県の琵琶湖であった「第5回びわ湖水の祭典ASIA POPS'87」で最後のアンコールでジャッキーが飛び入りで入り「ギャランドゥ」などを一緒に歌った。香港での成功でアジア各国のどこでもコンサートが開けるようになった。自ら構築したステージ狭しと駆け回り、派手な身振り手振りで楽曲の世界観を表現する、「日本のアイドル歌手」というスタイルをいち早くアジア各国へ輸出した。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイのテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している。西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している。 1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年、シチズンの広告で、海外(アジア各国)広告に初出演。広告曲は「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)。香港の当時のOLの平均月収は約6万円だったため、気軽にコンサートを楽しむというレベルではなくファンの見る目も厳しかった。この日のコンサートの模様は、ビージーズでもロッド・スチュワートでもやらなかった前例のないTV完全中継が行われた。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で鑑賞に訪れるので、負担も大きいと考え、1980年代後半は香港を中心にアジアでの活動を増やした。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ。1986年に香港でも発売したカバー・アルバム『Strangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで前代未聞の47週トップを独走した。香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった。また現地の歌手を活かすため、ステージや番組の演出にも関わり、日本と同様、香港のエンターテインメントの制作にも革命を起こした。 1987年3月5日 - 3月8日、中国本土で初のコンサートを首都北京・首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催。中国人民対外友好協会の二年越しのラブコールに応える形で行われ、廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された。香港の流行は中国にも伝わった。廣州は香港から120kmしか離れておらず、香港での知名度が高い西城は、廣州でも大スターで、ホテルを一歩出るとあっという間に人垣ができた。当時の中国の労働者の平均月収は約120人民元(当時の為替では約5000円)で、チケットは40元だったが飛ぶように売れた。コンサートは5000人収容の中山記念堂で2回行われたが、収容しきれず、リハーサルを公開すると3000人集まった。廣州に初めてレーザー光線を運び込み、待ち望んだヒデキの肉声に、感情をあまり表面に出さないと言われた人たちが、手拍子を打ち、立ち上がり、踊り出した。香港でも大ヒットした「年青人(ヤングマン)」では、会場中の人が「Y.M.C.A.」の大合唱。ヒデキが「再見!」とステージから去ると「安歌(アンコール)!」の声が響き渡った。西城は「8年前、初めて香港でコンサートをやって以来、ボクはずっとアジアを見つめていた。フィリピン、シンガポールと段階を経て、やっと中国にたどりついた。これはボクの8年間の夢だったんです」と話した。3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)。撮影の3か月間、ジャッキー・チェン、レスリー・チャン、ジョイ・ウォンなどと友好を深める。 1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル・韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間であった。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジル・サンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンターテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる。 1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年、バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。 1996年5月28日、『アジア音楽祭イン福岡』(TXN九州主催)出演と蓮舫とともに司会を務める。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放のゴールデンタイムで生中継されるのは初めてといわれた。同年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。 1997年10月開校した上海新偶像芸術学校(シャンハイ・ニューアイドル・アート・スクール)名誉教授。 1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産の万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する。アジア・ツアーの一環として広州市・珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment」北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。中国でも西城の知名度は高いといわれる。 1999年9月、日本からペルー共和国への移民100周年記念年としてペルーリマで開催されたNHK『NHKのど自慢』に八代亜紀と共にゲスト出演。 2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された。9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に松田聖子と共に招待され、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を観客約8万人に披露。この模様は10月13日、中国全土に放映された。 2012年9月16日、ブラジル・サンパウロ(ビア・フンシャル劇場)で23年振りにコンサートを開催。
※この「アジア進出」の解説は、「西城秀樹」の解説の一部です。
「アジア進出」を含む「西城秀樹」の記事については、「西城秀樹」の概要を参照ください。
アジア進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 09:26 UTC 版)
「オスカープロモーション」の記事における「アジア進出」の解説
中国の大手モデルエージェンシー「CHINA BENTLEY」と業務提携をしたり、台湾の国民的人気モデルの林志玲、『冬のソナタ』で日本でも知られるようになったパク・ソルミ、韓国からの逆輸入女優である笛木優子などと契約している。
※この「アジア進出」の解説は、「オスカープロモーション」の解説の一部です。
「アジア進出」を含む「オスカープロモーション」の記事については、「オスカープロモーション」の概要を参照ください。
アジア進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:46 UTC 版)
「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「アジア進出」の解説
1858年、清との間にアイグン条約を結んでアムール川左岸を割譲させた。ついでアロー戦争で英仏が清に結ばせた北京条約(1860年)にロシアも参加することで、ロシアは更にウスリー川右岸を手に入れた。これによりハバロフスクやウラジオストクが建設された。 しかし英仏はロシアが極東を征服することで太平洋に進出してくることを警戒していた。これに対してゴルチャコフはこの地域におけるロシアの孤立を阻止すべく、太平洋上に強い影響力を持つアメリカ合衆国と接近し、1867年にはアラスカを720万ドルでアメリカに売却している。 またロシアはインドを支配するイギリスを睨んで中央アジアに積極的な進出を図り、しばしば軍事侵攻も行った。ゴルチャコフはイギリスとの対立を恐れ、そうした強硬策には慎重な立場をとっていたが、軍務大臣ドミトリー・ミリューチンはイギリスとの対立を恐れず、中央アジアを完全な支配下に置く事を主張していた。折しも1860年代にはアメリカ南北戦争に伴う綿花危機が発生しており、綿花の輸入先として中央アジア獲得が重視されるようになっていた事もあって、ゴルチャコフの反対論もむなしく強硬策がとられることとなった。ロシア軍は1860年代にコーカンド・ハン国、ついでブハラ・ハン国を征服した。さらにクラスノヴォツクへ侵攻し、そこを拠点に1873年にはヒヴァ・ハン国を征服した。1880年代初頭までにはトルクメニスタン一帯も手中に収め、いよいよ英露両国はペルシア王国とアフガニスタン王国を緩衝地帯として挟むだけとなり、両国の緊張は高まった。
※この「アジア進出」の解説は、「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の解説の一部です。
「アジア進出」を含む「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事については、「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の概要を参照ください。
- アジア進出のページへのリンク