アイグン条約
アイグン条約
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「ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー」の記事における「アイグン条約」の解説
日本との修好を成し遂げたエフィム・プチャーチンは1857年に同じく清との全権委員に任命されたが、これはムラヴィヨフの反発を招き、彼はもう少しのところで総督職を辞するところであったが皇帝に慰留された。彼は引き続き清との硬軟あわせた交渉に臨んだ。 1858年の最後の探検では、ムラヴィヨフは全権委員として太平天国の乱やアロー戦争で疲弊した清との間にアイグン条約を締結し、アムール川左岸を手に入れた。清国の全権委員で黒龍江将軍・奕山(中国語版、英語版)をはじめとする清の役人たちは当初アムール川にどのような種類の境界線も設置することを拒み、これらの地域がロシアと清の事実上の共同管理のもとにある現状を追認し維持しようとした。しかし、ムラヴィヨフは清の役人たちに対し、ロシアの意図は中国を助けイギリスの侵略を防ぐことにあり、平和的で建設的なものであると説きつつ武力による威嚇も行い、ついに説得することに成功した。 アイグン条約はアムール川を清とロシアの国境であるとし、ロシアにアムールを通じた太平洋へのアクセスを保障した。この結果、ムラヴィヨフは「アムールスキー伯爵(アムール川の伯爵)」の称号を得た。条約調印を祝って、北京での大々的なイルミネーションやシベリアの諸都市での祭典が行われた。ロシアの得た新領土は満洲のうちアムール左岸の一帯(「外満州」)で、プリアムーリエ(沿アムール、現在のアムール州)、および現在のハバロフスク地方の大部分を含むものだった。1860年の北京条約によってアイグン条約は確認されたうえ、さらに多くの領土(ウスリー地方、および旧沿海州の南部)がロシア領として認められた。 一方でサハリンに関して、早くからこの地への入植や交易を進めていた日本との衝突が予想された。1859年8月18日、ムラヴィヨフ=アムールスキーは、自らコルベット「アメリカ」をはじめとする軍艦7隻を率いて日本に来航、江戸湾の品川に停泊した。彼は軍事力による威嚇を背景に、サハリン全土はロシア領と主張したが、1859年(安政6年)7月26日、虎ノ門天徳寺における会談の席上、江戸幕府は外国事務掛遠藤胤統、酒井忠毘を通してこれを完全に退けている。またこの航海で後に沿海州となる日本海沿岸の調査が行われ、ナホトカ湾などの港湾適地が発見された。 東シベリアの総督として、ムラヴィヨフ=アムールスキーはアムール川沿岸への植民を進めようとした。これらの試みは、自発的にアムール川流域に移住しようとする人が少なかったためほとんどが失敗に終わった。ムラヴィヨフはアムール流域の人口を増やすため、バイカル湖東部のコサック(バイカル・コサック)の軍管区からいくつかの部隊を移さざるを得なかった。また、アムール川の蒸気船運送を組織化して郵便航路を作ろうという試みも失敗に終わっている。 アムール左岸の奪取に対する首都ペテルブルクの官僚たちによる反対理由の主なものは、新領土を守る住民も兵士も不足しているということだった。このためムラヴィヨフ=アムールスキーはネルチンスクの農民に課せられていた鉱山労働を免除するという請願を行い、認められた。これら自由になったネルチンスク農民とバイカルから来たコサックを合わせ、12,000人のアムール・コサックが編成され各地に入植した。こうして、アムール左岸の防衛の核はコサックとなった。 ムラヴィヨフ=アムールスキーは東シベリアを二つの地区に分割する提案を行ったが拒否され、1861年に総督職を辞した。ムラヴィヨフの周囲に集まる政治犯らが英米などと組んでシベリアでの蜂起や独立を行いかねないこと、ムラヴィヨフ自身もこうした政治犯や米国人などに親しい自由主義者であることも、彼が慰留されなかった原因にある。彼は国家評議会(参議院)の委員となった。1868年、彼はパリに移住し、時々サンクトペテルブルクでの国家評議会に出席する以外は、1881年に死去するまでパリで暮らした。
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