尾張徳川家 尾張徳川家の概要

尾張徳川家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 21:30 UTC 版)

尾張徳川家
尾州中納言葵[1]
本姓 清和源氏
家祖 徳川義直
種別 武家
華族侯爵
出身地 摂津国
山城国
主な根拠地 尾張国
東京府
著名な人物 徳川宗春
徳川慶勝
支流、分家 高須(四谷)松平家武家子爵
徳川義恕家(男爵
凡例 / Category:日本の氏族

歴史

江戸時代

徳川家康の九男・徳川義直を家祖とする。義直は1603年慶長8年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代・平岩親吉によって担われており、義直自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の1606年(慶長11年)に義直は、兄・松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際に家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて名古屋藩を治めた。徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍徳川家継没後、紀伊徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後は御三卿が創設されたり、御三卿の系統が名古屋藩主になった影響もあって、尾張家や義直の直系子孫からは結局将軍を出せなかった。藩祖・義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家の家であった。

尾張徳川家の支系(御連枝)として、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)がある。しかし、共に短命の藩主が多く、1799年寛政11年)に尾張徳川家、1801年享和元年)には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶し[3]19世紀以降の尾張家は養子相続を繰り返して現在に至っている。第10代・斉朝[4]から第13代・慶臧まで吉宗(一橋徳川家宗尹)の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は第14代・慶勝[5]を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。

慶勝は1858年(安政5年)に大老井伊直弼と対立して安政の大獄により謹慎を命じられた。井伊暗殺後に復権して第一次長州征伐の征長総督となったが、乗り気ではなく再征には反対した。明治維新後には新政府の議定を務めた[6]。続く戊辰戦争に名古屋藩軍は官軍として従軍し、戦勝後の1869年(明治2年)には軍功により慶勝に賞典禄1万5000石が永世下賜された[7]

明治以降

昭和9年に徳川義親侯爵が建築家渡辺仁に東京・目白に建設させたイギリス風ハーフティンバー様式の邸宅。昭和43年に西武百貨店が取得して八ヶ岳高原に移築し、現在はレストラン「八ヶ岳高原ヒュッテ」となっている[8]

同年の版籍奉還によって、第16代・義宜華族に叙せられ名古屋藩知事となった[9]。また秩禄処分後、約74万円という高額の金禄公債証書[10]を受領した[9]。資産のうち約43万円を第15国立銀行に出資して配当金を再投資し、また士族授産のため北海道遊楽部原野の土地を開拓して八雲町を拓くなどして、維新後も高い政治的・経済的地位を維持した[11]1884年(明治17年)の華族令公布の際、第18代・義礼は叙爵内規の規定通り、旧御三家紀伊・水戸の両徳川家当主とともに侯爵に叙せられた。また分家の徳川義恕も父慶勝の維新の功績により男爵に叙された[12]

1871年(明治4年)の廃藩置県により旧大名家が東京に拠点を移し、旧藩地の財産を処分する中、義礼は名古屋市東区大曽根(現在の徳川園)に本邸を置き、1900年(明治33年)に明倫中学校を開設、家財の保存に努めるなどしていたが[13][14]、第19代・義親のとき、尾張家の事務所(1913年)と本籍(1920年)を名古屋から東京[15]へ移し、1910年代以降、明倫中学校を愛知県に譲渡、什器を競売に出し、墓地を集約するなどして名古屋の施設・什器等の整理を進め、建物や所有地を大々的に処分した[16]。その旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。義親は1931年昭和6年)に財団法人尾張徳川黎明会を設立し、処分した什宝の売却益等により[17]大曽根の義礼邸跡地に徳川美術館、目白に蓬左文庫徳川生物学研究所を開設した[18]

戦後、1946年(昭和21年)に義親が戦争協力者として公職追放にあい、1947年(昭和22年)に華族制度廃止により爵位を喪失[19]財産税の適用により資産の約8割を喪失[19]、保有していた南満州鉄道の株券が無価値になり[20]八雲町の徳川農場は農地法の適用を受け、一部の山林を残して解放された[21]

財政難のため目白の邸宅は西武に売却され[22]、蓬左文庫は1950年(昭和25年)に藩政資料などを徳川林政史研究所に残して名古屋市に売却され、徳川生物学研究所は1970年(昭和45年)に閉鎖、施設はヤクルトに売却された[23][24][25]

2016年平成28年)現在、公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館と徳川林政史研究所を運営[26]、株式会社八雲産業が目白の邸宅跡地に建設された外国人居留者向けの賃貸住宅と八雲町に残された山林を運営しており[27][28][29]、尾張家の当主は黎明会会長、美術館館長、八雲産業社長に就任している[30][31]

歴代当主と後嗣たち


  1. ^ 「紋章・マーク・シンボル」野ばら社。
  2. ^ 小田部雄次 2006, p. 323.
  3. ^ 他家へ養子入りした男系子孫までたどると、8代藩主宗勝の子で尾張藩付家老竹腰氏へ養子に入った竹腰勝起を経て高岡藩井上氏櫛羅藩永井氏へと血統が連なり、永井氏の血統は現在も存続している。
  4. ^ 斉朝は母方の高祖母が4代吉通の長女信受院であるため、義直の血を引いている。
  5. ^ もっとも、前述の通り高須松平家でも義直の男系子孫は断絶しており、慶勝の祖父の9代高須藩主松平義和水戸徳川家出身である。
  6. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『尾張藩』 - コトバンク
  7. ^ 新田完三 1984, p. 619.
  8. ^ 八ヶ岳高原ヒュッテ”. 八ヶ岳高原ロッジ. 2023年6月7日閲覧。
  9. ^ a b 小田部 1988, pp. 39–41.
  10. ^ 薩摩島津家、加賀前田家、長門毛利家、肥後細川家に次ぐ第5位の高禄だった(小田部 1988, p. 39)
  11. ^ 小田部 (1988, pp. 39–41)。1898(明治31)年当時、尾張徳川家の所得は約11万6千円で、所得番付の12位、華族の中で第7位だった(同)。なお、財務収支の改善は1890年から同家の御相談人となった加藤高明によるところが大きく、それ以前は収支がトントンだったが、加藤によって収支が大幅に改善し、資産が3倍-10倍になった、とされている(小田部 1988, pp. 42–43)。
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 344.
  13. ^ 香山 2015, p. 30.
  14. ^ 香山 2014, pp. 17–18, 28.
  15. ^ 麻布区富士見町、1932年から豊島区目白(香山 2016, pp. 124–125)
  16. ^ 香山 2015, pp. 3, 27–28, 30–32.
  17. ^ 香山 2015, p. 36.
  18. ^ 香山 2016, p. 121.
  19. ^ a b 小田部 1988, pp. 209–210.
  20. ^ 徳川 1963, p. 146.
  21. ^ 徳川 1963, pp. 110, 146.
  22. ^ a b 小田部 1988, p. 209.
  23. ^ 科学朝日 著、科学朝日 編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年、200頁。ISBN 4022595213 
  24. ^ 中村, 輝子、増田, 芳雄「山口清三郎博士の戦中日記」『人間環境科学』第5巻、帝塚山大学、1996年、89頁、NAID 110000481506 
  25. ^ 小田部 1988, p. 29.
  26. ^ 徳川黎明会 (2016b). “公益財団法人徳川黎明会”. 公益財団法人徳川黎明会(総務部). 2016年9月29日閲覧。
  27. ^ 八雲産業 (2016年). “Tokugawa dormitory トップページ > 徳川ドーミトリーとは”. YAKUMO SANGYO CO.,LTD.. 2016年10月27日閲覧。
  28. ^ 八雲産業 (2015年). “Tokugawa Village トップページ > 徳川ビレッジとは”. Yakumo Sangyo Co., Ltd.. 2016年10月27日閲覧。
  29. ^ 小田部 1988, pp. 40–41.
  30. ^ 八雲産業 2016.
  31. ^ 徳川黎明会 (4 July 2016). 平成27年度事業報告書 (PDF) (Report). 公益財団法人徳川黎明会. 2016年9月29日閲覧
  32. ^ 徳川 1963, p. 148.
  33. ^ a b c d e f g h 小田部 1988, p. 42.
  34. ^ a b c d e 香山 2014, pp. 2–3.
  35. ^ a b 香山 2016, p. 104.
  36. ^ a b 小田部 1988, pp. 42–43.
  37. ^ a b 香山 2016, p. 122.
  38. ^ 香山 2015, p. 27.
  39. ^ 香山 2014, pp. 2–3, 25.
  40. ^ a b c d 香山 2015, p. 1.
  41. ^ a b 香山 2015, p. 33.
  42. ^ a b 香山 2014, p. 3.
  43. ^ 香山 2016, p. 103.






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