立憲主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/06 06:17 UTC 版)
立憲主義を前提とした民主制を立憲民主主義[2]、やはり立憲主義を前提とした君主制を立憲君主制と呼ぶ。憲政主義とも言う。
歴史
古典的立憲主義
古典的立憲主義は、複雑な概念であるが、その「思想」は、人類の歴史的な経験に根差している[3]。国家の統治は、より上位の法に従わなければならないという「思想」の起源は、古代ギリシアに遡ることができるが、そこでは憲法に違反する統治は革命によって是正されるものと考えられていた[3]。
古代ギリシアに始まり、古代ローマで発展をみた自然法思想は、「近代的立憲主義」の本質的要素を準備した[3]。ローマの法学者は、公法と私法の根本的な区別を認めた[3]
「憲法」は多義的な概念である。広義では、国家の組織・構造に関する定めや政治権力の在り方などを定めた法規範という意味もある。これを「固有の意味の憲法」という。この「広義の憲法」に対応して、国家の統治を憲法に基づき規正しようとする原理を古典的立憲主義という。古典的立憲主義は、ヴェネツィア共和国やグレートブリテン及びアイルランド連合王国にみることができる。英国法では、中世における、多様な民族による分権的多層的な身分社会を前提に、身分的社会の代表である議会と、特権的身分の最たるものである国王との緊張関係を背景として、王権を制限し、中世的権利の保障を目的とした古典的な立憲主義が成立した。そこでは、立憲主義は、コモン・ローと呼ばれる不文の慣習に基づき権力の行使を行なわせる原理として理解され、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺が引用される。もっとも、そこでは、そもそも君主といえども主権と呼べるほどの権力を有していなかったという特殊な事情は看過されてはならない[4]。
近代的立憲主義
17世紀になるとフランスにおいて、権力が王権に集中するようになり、国王に対抗する中世的な身分的団体である各種ギルドが君主によって解体されていく中で、君主は法の拘束から解放されているとされて絶対君主制が確立し、ローマ教皇の権利からの対外的な独立性と同時に、国内における最高性を示すものとして君主主権の概念が登場する。主権自体多義的な概念なので注意が必要であるが、上記の意味での主権概念の成立と同時に、巨大な権力である国家と向き合い対峙する、社会の最小単位としての個人という概念が成立した[5]。
近代的立憲主義は、このような絶対君主の有する主権を制限し、個人の権利・自由を保護しようとする動きの中で生まれた。そこでは、憲法は、権力を制限し、国民の権利・自由を擁護することを目的とするものとされ、このような内容の憲法を、特に立憲的意味の憲法(近代的意味の憲法)という[6]。憲法学における立憲主義とは、近代的意味の憲法に従うこと[7]、あるいは「憲法」に則って政治権力が行使されるべきであるとする考え方、あるいはそうした考え方に従った政治制度のこと[8] を指す。フランス人権宣言16条には「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものでない」[9] とある。(アンシャンレジームからの解放としての)個人の人権の保障、および権力分立は、その重要な要素である。
フランスでは、1789年フランス革命が起こり、その後成立した1791年憲法は、国民主権の原理を宣明するとともに、国王を国家第一の公務員にすぎないと定めた。ここでの国民は、抽象的な全体を示すナシオンであるとされ、個々の市民の総体であるプープルと厳密に区別されていた。しかし、1792年、立憲君主派の擁護もむなしく、時の国王ルイ16世がその浅はかな行動によりギロチンにかけられることになり、このことが英国を始め諸外国の反発を招き、フランス包囲網へと発展する。このような国際状況下、フランスは、帝政を経験し、政治的な混乱を極める中で、共和制へ移行していく。その過程で、ナシオン主権論をとるか、それともプープル主権論をとるかが、統治構造のあり方を変えるものとして議論されるようになった[10]。
他方、英国では、16世紀から王権神授説に基づく国王主権が主張されるようになっていったが、マグナ・カルタ以来の中世的伝統を受けて、これに対抗するかのように法の支配の概念が16世紀から17世紀にかけて確立されていった。その影響の下、1688年名誉革命を経て、1714年ジョージ1世の治世に立憲君主制が確立する。そこでは、フランスとは対極的に長い歴史を経て穏健な形で君主の権力を制限することができたことから、国民主権の概念をとる必要もなく、むしろ貴族院と庶民院という議会内部での権力の抑制が重視されることになって、議会主権の原則が確立された[10]。
もっとも、ここで看過してはならないのは、英国での近代的立憲主義の確立がマグナ・カルタやアーブロース宣言にみられるような一見中世的な古典的立憲主義の復活という形をとりながらも、実際にはロックの社会契約説、抵抗権に支えられた信託に基づく人民主権論という近代的な思想に支えられていたことである[11]。
その後、バージニアでは1776年、ロックの人民主権論を背景に、憎むべき耐え難い専政を布いたジョージ3世を告発し、このような契約違反を理由に信託に基づく国王の主権を人民の元へ取り戻すという形で、人民主権論をとるバージニア憲法が成立し、これを受けて、アメリカ合衆国では、「法の支配」を実際の明文憲法の起草にあたって根幹に据えたアメリカ合衆国憲法が1788年に成立する。
われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。 — 1776年ケンタッキー州およびバージニア州決議にてトーマス・ジェファーソン
もっとも、アメリカ法では、法の支配の伝統に基づき、フランスにおける主権者の一般意志の表明による法律の至高性といったルソー的な人民主権論は忌避されており、かかるフランス流のルソー・ジャコバン型国家観と対極的な、多数の私的な団体が混在する多層的な多元的社会を背景とした市民社会主導型のトクヴィル・アメリカ型国家観が存在するとの指摘がある[12]。
外見的立憲主義
フランス革命、名誉革命という立憲主義の波の中、フランスと英国から国際的圧力を受けていた資本主義後進国のプロイセン=ドイツでも、人権・自由の保障を求める三月革命が起るが、前期的資本を上からの革命によって産業資本へ転化させようとする流れによって、三月革命は頓挫を余儀なくされ、1871年ビスマルク憲法(ドイツ帝国憲法)によって立憲君主国としてドイツの統一が実現し、ドイツ帝国が成立する。日本でも、ドイツと同じ流れの中で、明治維新が起こり、1889年大日本帝国憲法が成立するが、ドイツ帝国憲法と大日本帝国憲法は、いずれも旧体制の機構の温存こそが目的であって、人権や自由の保障を目的とするものではなく、そこでの権利は恩典的な性質のものとされたことから、外見的立憲主義による憲法と呼ばれることになる[13]。
このうち、ドイツでは実際にも親政が行われ、伝統的な支配体制がある程度機能していた。他方、日本では天皇大権は当初から有名無実であり、政府が「天皇陛下の名において」権限を振るう状態で、憲法の規定と政治の実態がはなはだしく乖離していた。美濃部達吉ら「立憲学派」は、国家法人説・天皇機関説に基づき、憲法による天皇大権の制限を主張したが[14]、その矛盾が天皇機関説事件や統帥権干犯問題として噴出することになる。
立憲主義の内容
立憲主義は、以下のような内容を持つ。第1は、憲法によって国家権力が制限されなければならないという点である。第2は、その制限が様々な政治的・司法的手段によって実効性のある一群のより上位の法に盛り込まれていなければならないという点である[3]。
この点で、規範的憲法と名目的憲法が区別され、いわゆる「スターリン憲法」、1954年の中華人民共和国憲法は、名目的憲法であるとされる。例えば、スターリン憲法第125条では、名目的には立憲主義の伝統に従いつつ、「言論の自由を保障する」との規定を置きつつも、「ただし、働く人民の利益に合致し、社会主義制度の強化を目的とする限りにおいて」との規程が置かれており、憲法によって国家権力が制限されていない。また、実際に、国家権力によって個人の権利が侵害された場合の実効性のある救済手段が確保されていなかった[3]。
国家緊急権との関係
国家緊急権とは、緊急事態において国家が平常時とは異なる権力行使を行う権限のことであり、とくに憲法上の緊急措置によってさえ解決されえない緊急事態が発生した場合に、憲法の規定を超えた国家緊急権の発動が認められるか否かはこの議論の焦点の一つである。国家緊急権は英米法においては古くからコモン・ローとしてマーシャル・ローの法理が認められており、また大陸法系諸国においてもフランス1814年憲章第14条において「(国王は)法律の執行及び国家の安全のために、必要な規則又は命令を発する」と規定し、のちイギリスのマーシャル・ローを継受し合囲状態(l'etat de siege)として制度化した経緯がある。ドイツでは19世紀半ばから20世紀始めにかけさかんに論じられた。近代立憲主義は、国家権力を憲法の拘束の下に置くことを目的とするため、このような権力行使は立憲主義の下では容易に認めがたいため、非常事態における緊急措置について予めできるかぎり立法化することが求められ、各国において緊急事態法制の発達をみている[15]。
- ^ スタンフォード哲学百科事典「Constitutionalism」
- ^ a b 重松克也「人権そして立憲民主主義に基づく法教育の意義と題」『法の科学』第47巻、日本評論社、2016年9月、154-157頁。
- ^ a b c d e f フェルマン・1990
- ^ 樋口1992420頁
- ^ 樋口1992・421頁
- ^ 芦部・5頁
- ^ 樋口1992・420頁、芦部・5頁、佐藤・4頁、高橋・14頁、長谷部・8頁
- ^ 「国連安全保障理事会に対する立憲的アプローチの試み」丸山政己(山形大学社会科学紀要第40巻第1号)kiyous-40-1-033to063.pdf P.45PDF-P.13
- ^ 邦訳については「近代人権宣言と抵抗権の本質について」小貫幸浩(早稲田大学法学会誌1991)[1] PDF-P.2
- ^ a b 樋口1992・65頁
- ^ 樋口1992・93頁
- ^ 樋口1992・273頁
- ^ 樋口1992・83頁
- ^ 樋口1992・15頁
- ^ この項目「憲法上の国家緊急権」矢部・山田・山岡(主要国における緊急事態への対処 : 総合調査報告書、国立国会図書館調査及び立法考査局2003-06-17) I 憲法上の国家緊急権 『主要国における緊急事態への対処 総合調査報告』 主要国における緊急事態への対処 : 総合調査報告書 - 国立国会図書館デジタルコレクション から起筆した。
- ^ a b c 樋口1992・430頁
- ^ 宮沢俊義「憲法Ⅱ(新版)」(1974年)P.103。(藤本富一 2008, p. 188)
- ^ a b c 藤本富一 2008, p. 188.
- ^ 國吉孝志「ドイツ連邦共和国における政党国家論 : 「戦闘的民主主義」と政党の違憲問題」(PDF)『九州国際大学大学院法政論集』第11号、九州国際大学、2009年3月、pp.39-101、NAID 110007575512。。
- ^ 藤本富一 2008, p. 190.
- ^ 藤本富一 2008, p. 192.
- ^ 藤本富一「外国人の憲法上の義務」P.187・PDF-P.4、P.205・PDF-P.22(脚注34)
- ^ 藤本富一2008.12.08、P.186
- 1 立憲主義とは
- 2 立憲主義の概要
- 3 近代的立憲主義の現代的変容
- 4 脚注
立憲主義と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 立憲主義のページへのリンク