立憲体制へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:44 UTC 版)
1848年革命の前夜の1845年と1847年、ヨーロッパは不作と金融危機に襲われた。ベルリンはじめ各都市では市民暴動が多発するようになった(じゃがいも革命)。折しもドイツでは自由主義者の活動が活発になっていたが、経済危機の中でそれは増幅された。こうした中、1847年2月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は勅令を出して第一回プロイセン連合州議会(ドイツ語版)を召集した。これは8州の議会の三身分会(騎士・都市・地方自治体の代表者)と領主会(王族、侯爵、伯爵の代表者)をベルリンへ集めた身分制議会であった。 1848年2月にはフランスで2月革命が発生。それがドイツにも波及する形で3月にはベルリンで3月革命が発生した。市民軍と国王軍の衝突が発生する中、国王は自由主義者と妥協する道を選び、軍をベルリンから退去させてルドルフ・カンプハウゼンを首相、ダーフィト・ハンゼマン(ドイツ語版)を蔵相とする初の自由主義政府を誕生させた。自由主義内閣はプロイセン憲法制定議会としてプロイセン国民議会(ドイツ語版)を設置したが、1848年夏以降革命の機運はヨーロッパ中で衰退へ向かった。11月にはプロイセンでも保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が首相に就任し、革命弾圧が本格化した。ベルリンは再び軍によって占領され、プロイセン国民議会は休会させられた。 同時に国王は自由主義派のガス抜きのために自由主義的な内容を含む欽定憲法(ドイツ語版)を発布し、この憲法によって議会が設立されることになった。数度の憲法改正を経て、1855年までには25歳以上の男子国民による三級選挙権制度(ドイツ語版)に基づく衆議院と世襲議員と終身勅任議員で構成される貴族院の二院制の議会が確立された。 1849年にはドイツ諸国の自由主義的ドイツ愛国者たちが集うフランクフルト国民議会がプロイセン国王に帝位を捧げようとしたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は自由主義による下からの統一を嫌って戴冠を拒否した。これに反発する革命派がドイツ各国で蜂起したが、国王は皇太弟ヴィルヘルム王子を司令官とする鎮圧軍を派遣しつつ、自由主義者のガス抜きのために自由主義右派ヨーゼフ・フォン・ラドウィッツ(ドイツ語版)中将の構想を採用して、5月26日にザクセン王、ハノーファー王とともに三王同盟(ドイツ語版)を結んで、小ドイツ主義のエルフルト連合憲法(ドイツ語版)とエルフルト連合議会(ドイツ語版)を創設した。しかしドイツ連邦を維持したいオーストリアとの対立を招き、ヘッセン選帝侯国で起きた革命の鎮圧をめぐる普墺の対立でロシアがオーストリアを支持する介入をしたことで、国王は連合構想を諦め、11月2日にラドウィッツを外相から罷免。後任の新首相・外相オットー・テオドール・フォン・マントイフェルはオーストリアとオルミュッツ協定を結んだ。これは一般にオーストリアへの完全屈服とされ、「オルミュッツの屈辱」と呼ばれた。
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