立憲主義の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1869年(明治2年)に岩倉具視が『政体論』を著した時、君主の個人的資質に依存する絶対君主制ではなく、制度によって為政者の恣意を予防する政治制度が遠想されていた。 1875年(明治8年)3月、井上毅の「司法省改革意見」は、西洋法継受による諸法典の編纂を提言。 4月、木戸らの大阪会議を受けて、漸次立憲体制へ移行する詔勅が出る。元老院および地方官会議を置き国会開設を準備、大審院の設置、参議と各省卿を分離して天皇への輔弼責任と行政事務を分離など、近代的な三権分立体制を確立する基本方針が決定され、法典整備もその一環になる。 左院は廃止され、法典編纂は司法省管轄になる。
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