外見的立憲主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 03:17 UTC 版)
フランス革命、名誉革命という立憲主義の波の中、フランスと英国から国際的圧力を受けていた資本主義後進国のプロイセン=ドイツでも、人権・自由の保障を求める三月革命が起るが、前期的資本を上からの革命によって産業資本へ転化させようとする流れによって、三月革命は頓挫を余儀なくされ、1871年ビスマルク憲法(ドイツ帝国憲法)によって立憲君主国としてドイツの統一が実現し、ドイツ帝国が成立する。日本でも、ドイツと同じ流れの中で、明治維新が起こり、1889年大日本帝国憲法が成立するが、ドイツ帝国憲法と大日本帝国憲法は、いずれも旧体制の機構の温存こそが目的であって、人権や自由の保障を目的とするものではなく、そこでの権利は恩典的な性質のものとされたことから、外見的立憲主義による憲法と呼ばれることになる。 このうち、ドイツでは実際にも親政が行われ、伝統的な支配体制がある程度機能していた。他方、日本では天皇大権は当初から有名無実であり、政府が「天皇陛下の名において」権限を振るう状態で、憲法の規定と政治の実態がはなはだしく乖離していた。美濃部達吉ら「立憲学派」は、国家法人説・天皇機関説に基づき、憲法による天皇大権の制限を主張したが、その矛盾が天皇機関説事件や統帥権干犯問題として噴出することになる。
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