甲骨文字 甲骨文字の概要

甲骨文字

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 10:04 UTC 版)

概説

甲骨文字は漢字の現存最古の資料の一つであり、今日使われている漢字の初期の形態を伝えている。この時代の漢字資料には金文・陶文・玉石文もあるが[1][注釈 1]、それらと比べて出土数が多く1つあたりの文量が多いため、漢字の歴史的研究において中心的で不可欠な資料となっている[2]

中国語の具体的な文章を記録したものとしても最古のものであり、中国語をシナ・チベット語族の中で最も早く記録された言語にさせている。一字一字の形こそ絵のような見た目をまだ保っているが、文字体系としては口頭言語を忠実に記録できるほど習熟した段階にあり、象形文字で表すことが困難な細かい意味を持つ単語や文法的機能語仮借形声文字を用いて表記することができる。[3][4]

甲骨の多くは殷のものだが、西周のものもある。

殷墟甲骨

殷王朝は、甲骨(亀の甲羅や牛の肩甲骨など)に熱した金属棒を当てることでひびを入れ、そのひびの形で吉凶を判断するという占卜を行っていた。第22代殷王武丁(紀元前13世紀半ば頃)以降、甲骨に占卜の内容・結果を刻み込むようになった。これが殷墟より出土する甲骨文字である[注釈 2][5][6]

殷王朝がたおれた後、甲骨は地中に眠り人々の記憶から消えることになったが、清代になって発見され(#発見と収集の歴史参照)、以降今日まで10万~20万片近くの出土があると言われている。[7][6]

西周甲骨

西周でも甲骨占卜と刻字が行われており、『詩経・大雅』の「綿」という詩では古公亶父岐山に移住する際に亀卜を行ったことが歌われている[8]。特に、1970年代に殷墟から直線距離にして600km以上離れた周原で300片近くが出土している(#西周甲骨の発見参照)。

発見と収集の歴史

発見

甲骨文字は、1899年秋、金石学者で国子監祭酒(文部長官相当)の王懿栄によって発見された。その甲骨は骨董商の范維卿から購入したもので、王懿栄はこれに狂喜し、以降数回にわたって范維卿や趙執斎から甲骨を1000片以上購入した。1900年に王懿栄は自殺したが、収集された甲骨の大部分は門弟の劉鶚に引き継がれた。劉鶚は収集と研究を続け、収集した甲骨約5000片あまりのうち1058片の拓本を掲載した図録『鉄雲蔵亀』を1903年に出版した。これによって甲骨文字が世に知られるようになった。[9][10][11][12]

范維卿は利益独占のためか当初甲骨の出土地を偽って伝えており、『鉄雲蔵亀』では甲骨の出土地は湯陰県であると記されている[9]。しかし羅振玉は調査の結果、実際の出土地は安陽市を流れる安陽川(洹水)南側の小屯村であり、そこが『史記』や古本『竹書紀年』などの伝世文献で「殷墟」と呼ばれている、殷王朝が最後に構えた都の跡であることを突き止めた[13][14][15][16]

発見に関する逸話

甲骨文字の発見の経緯として、王懿栄が持病のマラリアのための漢方薬として薬屋から購入した「竜骨」と呼ばれる骨片に文字が刻まれていたのを発見した、と説明されることがある。この逸話の初出は「汐翁」というペンネームの人物によって書かれた1931年の新聞記事で[注釈 3]、後に歴史語言研究所(後述)が編纂した年表に引用されたことで広まった。しかし、「汐翁」の記事には出典が示されておらず後にも先にも類似の記録が見当たらないことや、字の刻まれた甲骨がそのまま売られていたという話自体の疑わしさ等から、信頼できないものとされている。[17][18]

また、王懿栄よりも先に王襄と孟定生が甲骨を収集していたという説があるが、彼らは1898年に范維卿から遺物の話を聞いたのみで、甲骨を実際に見せられたのは王懿栄に売れたことで范維卿がその価値を確信してからであった。他に、王懿栄よりも先に端方が范維卿から甲骨を収集していたという説もあるが、その証拠はない。[19][20][21]

科学発掘

甲骨の出土地が小屯村と判明したことで多くの収集家が訪れるようになった。1899年から1928年までの間に8万~10万片が私人によって発掘されたと言われている[22][23]。それ以上の遺跡の損壊や遺物の海外への流出を食い止めるため、また甲骨の発掘以外にも遺跡の全体的な調査を行うため、1928年10月に中央研究院歴史語言研究所が設立され、その下に董作賓らが率いる殷墟発掘調査チームが編成された。発掘調査は日中戦争によって中止となる1937年までに15回行われ、甲骨24918片が発見された。[24][25][26]

戦後に中華人民共和国が成立して以降は、1950年に設立された中国科学院考古研究所に発掘調査が引き継がれた。甲骨の大規模な発見としては、1973年の小屯南地甲骨、1991年の花園荘東地甲骨などがある。[27][28][29]

西周甲骨の発見

最も早く発見された西周甲骨は、1950年に四盤磨村(小屯村の西隣)で考古研究所の殷墟発掘調査チームによって発見された牛骨である。3片発見された牛骨のうち1片に文字が刻まれていたが、刻まれていたのは卜辞ではなく数(筮竹を用いた占いの記録)であった。その後1960年頃まで同様の西周甲骨が毎年各地の遺跡で数片ずつ発見された。[30][31]

1977年陝西省岐山県鳳雛村H11地点より占卜用の甲骨16742片が発見され、1979年には同H31地点で同様の甲骨413片が発見された[32][33]。そのうち文字が刻まれていたのはH11出土が282片、H31出土が10片である。これらはながらく部分的にしか公表されていなかったが、2002年に『周原甲骨文』[34]が出版され、(破損したものを除く)全ての有字甲骨のカラー写真が公開された[35]

その後も西周甲骨は散発的に発見されている。大規模な発見としては2004年2008年に岐山県周公廟遺跡のそれぞれH45地点とG2地点で発見されたものがあるが、現在のところ10数片しか公表されていない。[36][37]


注釈

  1. ^ 他に、甲骨に筆で記された文字がごく少量存在する。竹簡も当時既に使われていたと推測されるが、腐敗しやすい材料ということもありこの時代の考古学的出土はない。
  2. ^ 比較的数は少ないが、占卜とは関係のない甲骨文も存在する(#甲骨文の記録内容参照)。
  3. ^ より正確には、光緒戊戌年(=1898年、史実より1年前)に王懿栄が達仁堂という薬屋で購入した亀版に文字が刻まれているのを劉鶚が発見したという内容である。
  4. ^ それに対して董作賓の、例えば第2期(祖庚・祖甲)は、「祖庚と祖甲の時代にまたがるグループ」ではなく「祖庚のグループと祖甲のグループの総称」を意図していた
  5. ^ こうした例は「両系説」に従って、同じ事柄や関連する事柄を村北の占卜機構と村南の占卜機構でそれぞれ占った例と解釈できる。
  6. ^ 貞人は甲骨文字の書記ではない。一つの甲骨に複数の書記が刻字する例は少ない。

出典

  1. ^ 黄徳寛 2023, pp. 54.
  2. ^ 裘錫圭 2022, pp. 82.
  3. ^ 裘錫圭 2022, pp. 39–40.
  4. ^ 黄徳寛 2023, pp. 30–31, 146–148.
  5. ^ 王宇信 2010, pp. 65.
  6. ^ a b 裘錫圭 2022, pp. 80–81.
  7. ^ 夏含夷 2013, pp. 17–18.
  8. ^ 王宇信 2010, p. 329.
  9. ^ a b 劉鶚 1903, 劉鶚自序.
  10. ^ 马如森 2007, pp. 7–8.
  11. ^ 王宇信 2010, pp. 21–23.
  12. ^ 沈之瑜 2011, pp. 1–2.
  13. ^ 羅振玉 1910, pp. 1–3.
  14. ^ 马如森 2007, p. 5.
  15. ^ 王宇信 2010, p. 22.
  16. ^ 沈之瑜 2011, p. 2.
  17. ^ 马如森 2007, pp. 8–9.
  18. ^ 沈之瑜 2011, p. 13.
  19. ^ 马如森 2007, pp. 10.
  20. ^ 王宇信 2010, pp. 24–25.
  21. ^ 沈之瑜 2011, pp. 1–2, 13.
  22. ^ 马如森 2007, pp. 15.
  23. ^ 王宇信 2010, p. 26.
  24. ^ 马如森 2007, pp. 16–19.
  25. ^ 王宇信 2010, pp. 29–32.
  26. ^ 沈之瑜 2011, pp. 3–9.
  27. ^ 马如森 2007, pp. 19–20.
  28. ^ 王宇信 2010, pp. 38–41.
  29. ^ 沈之瑜 2011, pp. 11–12.
  30. ^ 王宇信 2010, pp. 331–333.
  31. ^ 許子瀟 2017, p. 1.
  32. ^ 王宇信 2010, pp. 334–337.
  33. ^ 許子瀟 2017, pp. 3–4.
  34. ^ 曹玮 2002.
  35. ^ 王宇信 2010, pp. 368–370.
  36. ^ 王宇信 2010, pp. 370–373.
  37. ^ 許子瀟 2017, p. 6.
  38. ^ 王國維 1917.
  39. ^ a b c 马如森 2007, p. 161.
  40. ^ 王宇信 2010, pp. 124–125.
  41. ^ 沈之瑜 2011, pp. 147–148.
  42. ^ 董作賓 1931.
  43. ^ 董作賓 1933.
  44. ^ 沈之瑜 2011, pp. 143–145.
  45. ^ 王宇信 2010, pp. 128–130.
  46. ^ a b 王子楊 2021a.
  47. ^ 陳夢家 1956.
  48. ^ 王子楊 2021a, pp. 2511–2512.
  49. ^ 沈之瑜 2011, pp. 145–146, 167ff..
  50. ^ 王宇信 2010, pp. 149–157.
  51. ^ 王子楊 2021b.
  52. ^ 李學勤 1977.
  53. ^ 裘錫圭 1981.
  54. ^ 林澐 1984.
  55. ^ 王宇信 2010, pp. 178–182.
  56. ^ 王子楊 2021c.
  57. ^ 马如森 2007, pp. 163–167.
  58. ^ 王宇信 2010, pp. 132–148.
  59. ^ 沈之瑜 2011, pp. 146–156.
  60. ^ 马如森 2007, pp. 143–147.
  61. ^ 夏含夷 2013, pp. 32–46.
  62. ^ 黄徳寛 2019, p. 132.
  63. ^ 马如森 2007, p. 139.
  64. ^ 沈之瑜 2011, pp. 67ff..
  65. ^ 王宇信 2010, pp. 64, 65, 68.
  66. ^ 夏含夷 2013, pp. 18–19.
  67. ^ 马如森 2007, pp. 136–138.
  68. ^ 王宇信 2010, pp. 82–83.
  69. ^ 沈之瑜 2011, pp. 66–67.
  70. ^ 黄徳寛 2019, pp. 131–132.
  71. ^ Keightley 2012, pp. 359–360.
  72. ^ 方稚松 2007.
  73. ^ 王宇信 2010, pp. 93–106.
  74. ^ 裘錫圭 1989.
  75. ^ 黄徳寛 2019, p. 65.
  76. ^ 裘錫圭 2022, p. 83.
  77. ^ 黄徳寛 2023, pp. 59–61.
  78. ^ 马如森 2007, pp. 148–149.
  79. ^ 王宇信 2010, pp. 65–67.
  80. ^ 夏大兆 2014, pp. 201–207.
  81. ^ 马如森 2007, pp. 149–150.
  82. ^ 王宇信 2010, pp. 66–67.
  83. ^ 夏大兆 2014, pp. 208–213.
  84. ^ 马如森 2007, pp. 150–151.
  85. ^ 王宇信 2010, p. 67.
  86. ^ 夏大兆 2014, pp. 229–236.






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