ラファエロ・サンティ ローマ時代

ラファエロ・サンティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/08 07:07 UTC 版)

ローマ時代

ラファエロをローマへ招き、重要なパトロンとなったローマ教皇『ユリウス2世の肖像』(1512年頃)
ナショナル・ギャラリー所蔵。
ラファエロの肖像画の中でももっとも高く評価されている作品のひとつ。

1508年の終わりごろにラファエロはローマへと居を移し、結果として残りの生涯をローマですごすこととなった。ラファエロがローマを訪れたのは、ローマ教皇ユリウス2世からの招きによるものであり、おそらくは当時サン・ピエトロ大聖堂の建築を任されていた建築家で、ウルビーノ近郊のラファエロの遠縁ではないかと考えられているドナト・ブラマンテからの推挙によるものだった[31]。ローマ教皇の招致を受けてからも数ヶ月間ローマで逡巡していたミケランジェロとは違って[32]、ラファエロはすぐさまヴァチカンへと向かい、ヴァチカン宮殿のローマ教皇となる専用図書室のフレスコ壁画制作依頼を受けた[注釈 2]。このローマ教皇からの絵画制作依頼は、ラファエロにとってそれまでにない程の極めて重要なものだった。専用図書室には複数の部屋があり、すでにほかの画家が弟子たちとともに内部装飾を手がけている部屋もあった。これらの部屋には、枢機卿時代のユリウス2世と激しく対立していた先々代のローマ教皇アレクサンデル6世の出資による壁画や紋章などがすでに描かれていた。ユリウス2世による図書室の装飾は、これらアレクサンデル6世の痕跡をヴァチカン宮殿からすべて消し去ることを目的としていた[34]

ヴァチカン宮殿ラファエロの間

アテナイの学堂』(1509年 - 1510年
ヴァチカン宮殿ラファエロの間の「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。

4部屋で構成されるヴァチカン宮殿の通称ラファエロの間のうち、最初に手がけられたのは「署名の間」と呼ばれる部屋である。ラファエロが「署名の間」に描いたフレスコ壁画は『アテナイの学堂』、『パルナッスス山』、『聖体の論議』などで、当時のローマ画壇に衝撃をもって迎えられ、現在においてもラファエロの最高傑作とみなされている。残りの3部屋にはすでにペルジーノやシニョレッリらによるフレスコ壁画が描かれていたが、ラファエロはこれらの壁画を上描きすることを命じられた。これら3部屋のすべての壁面、なかには天井にもフレスコ画が描かれているが、制作の進行とともにラファエロ自身がフレスコ画に携わる割合は徐々に減っており、ラファエロが率いていた工房の熟練画家たちが手がけた部分が多くなっている。1520年のラファエロの死去後に完成した最後の「ボルゴの火災の間」では、デザインにもラファエロはほとんど関係しておらず、大部分が工房の画家たちによって描かれた。ラファエロの間の依頼主であるユリウス2世は1513年に死去したが、ラファエロはメディチ家出身の次代ローマ教皇レオ10世ともさらに良好な関係を築き上げ、ラファエロの間の壁画制作も引き続きレオ10世のもとで続けられた[35]

「署名の間」の『アテナイの学堂』に描かれた哲学者ヘラクレイトス。当時『システィーナ礼拝堂天井画』を手がけていたミケランジェロがモデルとなっている。

ラファエロがラファエロの間のフレスコ壁画製作過程において、当時ミケランジェロが手がけていた『システィーナ礼拝堂天井画』に影響を受けていることは明らかである。ヴァザーリの著述によると、1511年にブラマンテがこっそりとラファエロをシスティーナ礼拝堂へと連れていき、ミケランジェロが用いていた足場を解体して天井画で最初に完成していた箇所をラファエロに見せたとなっている。ミケランジェロが描きあげた『システィーナ礼拝堂天井画』は、その後数百年にわたってほかの画家たちを怖気づかせるに十分足る圧倒的な作品だったが、ラファエロは誰よりも早くその影響を自身の絵画に取り入れただけではなく、おそらくは他の誰よりもミケランジェロの作風を昇華できた芸術家だった。『アテナイの学堂』にはミケランジェロの肖像が哲学者ヘラクレイトスとして描かれており[36]、ラファエロの間に描かれているそのほかの人物像にも『システィーナ礼拝堂天井画』に描かれた巫女(シビュラ)や裸体の青年(イニューディ)からの影響が見られる。しかしながら単なるミケランジェロの模倣にはとどまらず、ラファエロ自身の作風とミケランジェロからの影響が渾然一体となった作品として仕上がっている[37]。ただし、ミケランジェロはラファエロが自分の絵画を盗作したと非難しており、ラファエロが死去した後にも「彼(ラファエロ)の芸術に関する知見は、すべて私(ミケランジェロ)から得たものだ」という不満に満ちた書簡を残しているが、当時の第三者からの評価はおしなべてラファエロに好意的なものとなっている[38]

非常に大規模で、複雑な構成を持つラファエロの間のフレスコ壁画は、古典・古代様式を発展させた盛期ルネサンスの絵画中でも屈指の作品群とされている。イギリス人美術史家マイケル・レヴィー (Michael Levey) はその著書で「ラファエロは自身の作品の人物像に、ユークリッド幾何学のような超人的清明さと優雅さを与えた」としている[39]。ラファエロの間のうち、最初に手がけられた2部屋のフレスコ壁画の質はほぼ完璧といっていいほどに高いが、工房の画家が中心となって完成した残り2部屋のフレスコ壁画については、とくに観る者への訴求力において完全に成功しているとは言えない。

ローマ時代のそのほかの作品

ローマ教皇『レオ10世と二人の枢機卿』(1518年頃)
ウフィツィ美術館所蔵。
背後に描かれている枢機卿は、ジュリオ・デ・メディチ(後のローマ教皇クレメンス7世)とルイージ・デ・ロッシである。

ローマ時代のラファエロはヴァチカン宮殿ラファエロの間のフレスコ壁画制作に多くの時間をとられていたが、ほかの作品も残している。肖像画では、ラファエロの主要なパトロンだった二人のローマ教皇、ユリウス2世とレオ10世の肖像画が重要で、とくにユリウス2世を描いた作品はラファエロの最高傑作のひとつとみなされている。また、友人であるバルダッサーレ・カスティリオーネの肖像画や、ローマ教皇庁の関係者を描いた肖像画もある。外交手段として他国の君主へと贈呈されたラファエロの作品もあり、フランス王フランソワ1世はナポリ王妃ジョヴァンナ・ダラゴナの肖像画など、ローマ教皇から2点の絵画を贈られた。ただしこの肖像画は下絵となるドローイングはナポリへと遣わされた弟子によるもので、実際の絵画制作もほとんどの部分がラファエロ自身ではなく工房の作品と考えられている[40]。そのほかラファエロは、富裕な銀行家でローマ教皇の財務担当だったアゴスティーノ・キージ英語版のために、キージの別宅(現ヴィッラ・ファルネジーナ)の内装フレスコ画のデザインを手がけ『ガラテアの勝利』(1513年)などを描いている。また、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会 (en:Santa Maria della Pace) とサンタ・マリア・デル・ポポロ教会 (en:Santa Maria del Popolo) の2つの教会の礼拝堂にフレスコ壁画を描いた。

ローマ時代のラファエロがラファエロの間のフレスコ壁画のほかにローマ教皇の依頼で手がけた、『ラファエロのカルトン』(1515年 - 1516年)と呼ばれる重要な油彩画がある。これはシスティーナ礼拝堂の装飾に使用するタペストリのデザイン画として、聖パウロ聖ペテロの生涯をモチーフにラファエロが描いた連作である。当時10点描かれた作品のうち現存する7点をイギリス王室のロイヤル・コレクションが所蔵しており、現在はロイヤル・コレクションからの貸与絵画としてロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に展示されている。完成した『ラファエロのカルトン』はオランダの芸術家ピーテル・ファン・アールストの工房でタペストリとして織り上げるためにブリュッセルに送られた。おそらくタペストリは1520年にラファエロが死去する直前に完成し、完成したタペストリをラファエロも目にした可能性がある[41]

ラファエロはヴァチカン宮殿の中庭に通じる長い回廊(ロッジア)のデザインと壁画も手がけており、このロッジアはローマ風のグロテスク様式で装飾されている[42]。また、ボローニャ美術館所蔵の『聖チェチリアの法悦』 (1516年 - 1517年アルテ・マイスター絵画館所蔵の『システィーナの聖母』といった重要な祭壇画も残している。ローマで死去したラファエロの遺作であるとともに未完の絵画作品となったのはヴァチカン美術館所蔵の『キリストの変容』で、1514年から1516年ごろに描かれたプラド美術館所蔵の『シチリアの苦悶』とともに、晩年のラファエロの作風が盛期ルネサンスの次の芸術様式であるマニエリスム様式よりも、さらに後期のバロック様式に近いとされている作品である[43]。ただし、マニエリスム様式の定義自体が流動的ともいわれ、ラファエロの作風とマニエリスム様式の関連性については議論の的となっている[44]


注釈

  1. ^ 「ラファエロ・ダ・ウルビーノ」(Raffaello da Urbino)、「ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ (Rafael Sanzio da Urbino)」などとも表記される。「サンティ」もラテン語表記の「サンティウス (Santius)」と表記されることがある。また、ラファエロ自身が書類などに署名する際にはラテン語の「ラファエル・ウルビナス (Raphael Urbinas)」を使用していた [1]
  2. ^ ユリウス2世はとくに読書家というわけではなかった。その死後に残された書籍は220冊で、当時としてはそれなりの蔵書数だったが専用の図書室が必要なものではなかった。壁に書架もなかったこの専用図書館名は1527年のローマ略奪で破壊されてしまった [33]
  3. ^ 「イル・バヴィエラ (Il Baviera)」は「バイエルン人 (the Bavarian)」を意味すると考えられる。当時のローマにはドイツ出身の画家も多く、もしカロッチもドイツ出身だったとすれば、1527年のローマ略奪時にマルカントニオから多くの版画原版の銅板を奪ったことの説明になりうる。[71]
  4. ^ マルガリータ・ルティの肖像画と考えられている『ラ・フォルナリーナ』には左胸に右手を添えた女性が描かれている。美術史家や研究者のなかには、このポーズは愛情を表す古典的なポーズを装っているが、ルティが乳がんに罹患しており胸部に腫瘍があることを表現しているのだと考える者もいる[75]
  5. ^ 多くの美術史家や研究者がヴァザーリが記録しているこの死因を否定している。17世紀から18世紀のイタリア人医師ベルナルディーノ・ラマツィーニは1700年の著書『働く人の病 (De morbis artificum)』で、当時の画家たちが「座り続ける暮らしを送っており、その結果うつ病になる」ことがよくあり「水銀や鉛が含まれた絵具」を使用していたために短命だったとし、1915年にブファラーレは「肺炎か腸チフス」、ポルティグリオッティは「肺疾患」、ヨアニデスは「働きすぎによる過労」だったとしている。またラファエロが死去した年齢にも複数の説があり、ラファエロと同時代のイタリア人貴族マルカントニオ・ミヒル (en:Marcantonio Michiel) は34歳、パンドルフォ・ピコやジローラモ・リッポマーノは33歳説をそれぞれ唱えている[76]
  6. ^ イギリス Amazon で「ルネサンス」関連のベストセラー上位25冊のうち、タイトルに入っている名前としてはレオナルドが5冊、ミケランジェロが3冊、そしてラファエロが1冊となっている[86]

出典

  1. ^ Gould p.207
  2. ^ Jones and Penny, p. 1 and 246. ラファエロは37歳の誕生日に死去した。複数の記録によれば、ラファエロは生誕日、死去日はどちらも聖金曜日となっているためだが、異説もある。
  3. ^ See, for example Honour, Hugh; John Fleming (1982). A World History of Art. London: Macmillan. p. 357 
  4. ^ Vasari, p. 208, 230 and passim.
  5. ^ Urbino: The Story of a Renaissance City By June Osborne, p.39 on the population, as a "few thousand" at most; even today it is only 15,000 without the students of the University
  6. ^ Jones and Penny, pp. 1 - 2
  7. ^ Vasari:p. 207 & passim
  8. ^ Jones & Penny:204
  9. ^ Vasari, at the start of the Life. Jones & Penny:5
  10. ^ アシュモレアン博物館 Image”. z.about.com. 2007年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月15日閲覧。
  11. ^ Jones and Penny: pp. 4 - 5, p. 8 and 20
  12. ^ Simone Fornari in 1549-50, see Gould:207
  13. ^ Jones & Penny:8
  14. ^ Jones & Penny:2-5
  15. ^ contrasting him with Leonardo and Michelangelo in this respect. Wölfflin:73
  16. ^ ミシェル・フイエ『イタリア美術』文庫クセジュ、白水社2012年、60頁。
  17. ^ Jones and Penny:17
  18. ^ 1789年の地震で大きな損傷を受けた。
  19. ^ Dates are taken from the Vatican Pinacotheca website
  20. ^ Jones and Penny:pp. 5 - 8
  21. ^ One surviving preparatory drawing appears to be mostly by Raphael; quotation from Vasari by - Jones and Penny:p. 20
  22. ^ Image”. szepmuveszeti.hu. 2012年8月16日閲覧。
  23. ^ Gould:207-8
  24. ^ Jones and Penny:5
  25. ^ National Gallery, London Jones & Penny:p. 44
  26. ^ Jones & Penny:21-45
  27. ^ Vasari, Michelangelo:251
  28. ^ Jones and Penny:p. 43
  29. ^ Jones & Penny:44-47, and Wöllflin:79-82
  30. ^ The Royal Collection. “Gold ring with an onyx cameo of Ariadne”. royalcollection.org.uk. 2010年8月26日閲覧。
  31. ^ Jones & Penny:49, differing somewhat from Gould:208 on the timing of his arrival
  32. ^ Vasari:247
  33. ^ Jones & Penny:4952
  34. ^ Jones & Penny:49
  35. ^ Jones & Penny:49-128
  36. ^ Following The School of Athens, "Who is Who?" Archived 2006年7月15日, at the Wayback Machine. by Michael Lahanas
  37. ^ Jones & Penny:101-105
  38. ^ Blunt:76, Jones & Penny:103-5
  39. ^ Levey, Michael; Early Renaissance, p.197 ,1967, Penguin
  40. ^ Jones & Penny:p. 163
  41. ^ Jones & Penny:pp. 133 - 147
  42. ^ Jones & Penny:pp. 192 - 197
  43. ^ Jones & Penny:pp. 235 - 246
  44. ^ Craig Hugh Smyth, Mannerism & Maniera, 1992, IRSA Vienna, ISBN 3-900731-33-0
  45. ^ Jones and Penny:pp. 146 - 147, 196-197, and Pon:pp. 82 - 85
  46. ^ Jones and Penny:p. 147, 196
  47. ^ Vasari, Life of Polidoro online in English Maturino for one is never heard of again
  48. ^ Vasari:p. 207, 231
  49. ^ See for example, the en:Raphael Cartoons
  50. ^ Jones & Penny:pp. 163 - 167 and passim.
  51. ^ The direct transmission of training can be traced to some surprising figures, including Brian Eno, Tom Phillips and Frank Auerbach (Tomphillips.co.uk)
  52. ^ Vasari (full text in Italian) pp197-8 & passim; see also Getty Union Artist Name List entries
  53. ^ Jones & Penny:pp. 215 - 218
  54. ^ Jones & Penny:pp. 210 - 211
  55. ^ Jones & Penny:pp. 221 - 222
  56. ^ Jones & Penny:p. 219 - 220
  57. ^ Jones and Penny:p. 226 - 234; Raphael left a long letter describing his intentions to the Cardinal, reprinted in full on pp.247 - 248.
  58. ^ Jones & Penny:pp. 224(quotation) - 226
  59. ^ Jones & Penny:205 The letter may date from 1519, or before his appointment
  60. ^ GB Armenini (1533-1609) De vera precetti della pittura(1587), quoted Pon:p. 115
  61. ^ Jones & Penny:p. 58 & ff; 400 from Pon:p. 114
  62. ^ Ludovico Dolce (1508-68), from his L'Aretino of 1557, quoted Pon:p. 114
  63. ^ quoted Pon:p. 114, from lecture on The Organization of Raphael's Workshop, pub. Chicago, 1983
  64. ^ Not surprisingly, photographs do not show these well, if at all. Leonardo sometimes used a blind stylus to outline his final choice from a tangle of different outlines in the same drawing. Pon:pp. 106-110.
  65. ^ Lucy Whitaker, Martin Clayton, The Art of Italy in the Royal Collection; Renaissance and Baroque, p.84, Royal Collection Publications, 2007, ISBN 978-1-902163-29-1
  66. ^ Pon:p. 104
  67. ^ National Galleries of Scotland
  68. ^ Pon:102. See also a lengthy analysis in: Landau:118 ff
  69. ^ The enigmatic relationship is discussed at length by both Landau and Pon in her Chapters 3 and 4.
  70. ^ Pon:86-87 lists them
  71. ^ Jones and Penny:82, see also Vasari
  72. ^ Pon:pp. 95 - 136 & passim; Landau:pp. 118 - 160, and passim
  73. ^ Lucretia”. メトロポリタン美術館. 2010年8月26日閲覧。
  74. ^ a b Vasari:pp. 230 - 231
  75. ^ "The Portrait of Breast Cancer and Raphael's La Fornarina", The Lancet, December 21, 2002/December 28, 2002.
  76. ^ Shearman:p. 573.
  77. ^ Vasari:p. 231
  78. ^ André Chastel, Italian Art,p. 230, 1963, Faber
  79. ^ Walter Friedländer, Mannerism and Anti-Mannerism in Italian Painting, p. 42 (Schocken 1970 edn.), 1957, Columbia UP
  80. ^ Blunt:76
  81. ^ See Jones & Penny:pp. 102 - 104
  82. ^ The 1772 Discourse Online text of Reynold's Discourses The whole passage is worth reading.
  83. ^ Wölfflin:p.82,
  84. ^ Ruskin, Pre-Raphaelitism, S. 127 online at Project Gutenburg
  85. ^ Berenson, Bernard, Italian Painters of the renaissance, Vol 2 Florentine and Central Italian Schools, Phaidon 1952 (refs to 1968 edn), p.94
  86. ^ Bestsellers in Renaissance”. Amazon.com. 2010年8月26日閲覧。






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