ボルセーナのミサとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ボルセーナのミサの意味・解説 

ボルセーナのミサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 22:10 UTC 版)

『ボルセーナのミサ』
イタリア語: Messa di Bolsena
英語: The Mass at Bolsena
作者 ラファエロ・サンティ
製作年 1512-1514年
種類 フレスコ画
寸法 660 cm (260 in)
所蔵 ヴァチカン宮殿ヴァチカン市国

ボルセーナのミサ』(: Messa di Bolsena: The Mass at Bolsena)は、イタリア・盛期ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティが1512-1514年に描いたフレスコ画である。ローマ教皇ユリウス2世 (1443-1513年) は、現在、ヴァチカン宮殿の「ラファエロの間」として知られる部屋をフレスコ画で装飾するようラファエロに委嘱したが、本作はその一部として制作された。『神殿から追放されるヘリオドロス』にちなみ「ヘリオドロスの間」と呼ばれる部屋で見ることができる[1][2][3][4][5][6]

作品

『ボルセーナのミサ』は、1263年、ローマ教皇ウルバヌス4世の時代に[4]ボルセーナ (Bolsena) のサンタ・クリスティーナ英語版教会で起きたといわれている「聖体の奇跡」を描いている[1][2][3][4][5][6]。「聖変化」の教義を疑っていたボヘミア司祭が、はたしてこの聖餅が神の肉身であろうかと思いながらミサを行っていると、聖餐のパンが血を流し始めたという[1][2][3][4][5]。流れ出た血はテーブルの布上に十字架を形作り[5]、司祭は信仰に立ち返った[1][2]。これは、カトリックの最も重要な教義の1つ[5][6]が、神自身が起こした奇跡で証明されたということを意味している[6]

奇跡の起きた翌年の1264年、ウルバヌス4世は、この出来事を祝うために「聖体の祝日」を創設した[1][7]。血に染まった「ボルセーナの布英語版」は、今日もオルヴィエート大聖堂英語版 の主要な聖遺物として崇められている[2][3][6]。そもそも、オルヴィエート大聖堂は、この奇跡を記念して建立されたものである[1][6]

ミサを行っている司祭の反対側の画面右側に、教皇ユリウス2世が跪いた姿で表されており[1][3][4][5][6]、彼はその奇跡の証人であると言明している[1][6]。彼は、1506年のボローニャ遠征の際に「ボルセーナの布」が保管されていたオルヴィエート大聖堂に立ち寄り、この聖遺物を拝したことがあった[5]。ユリウス2世は当時、ボローニャを失っており、『ボルセーナのミサ』が描かれていた時、彼はその奪還に命を懸けていた。それが実現されたのは1512年の6月のことであった[5]

ユリウス2世の背後には教皇に従う聖職者[4]、画面下部右側にはスイス衛兵がいる[2][4]。スイス衛兵はユリウス2世が制定した教皇の護衛兵で[2]、教皇がフランスから領土を奪還するのに貢献した[3]。そのため教会の守護者という名称を与えられた上、1512年の夏に特徴のある剣とベレーを与えられたが、そのことはこのフレスコ画の制作年を推定するのに寄与している[2]。なお、スイス衛兵のうちの1人は画家ラファエロの自画像となっており、彼は髪を結いあげ正面を向いている人物である。

左側の階段の下には暗色の衣服を纏った、ユリウス2世の娘フェリーチェ・デッラ・ローヴェレも横顔で表されている[8]。右側の4人の枢機卿は、ユリウス2世の親類であるレオナルド・グロッソ・デッラ・ローヴェレ (Leonardo Grosso della Rovere) 、ラファエロ・リアーリオ (Raffaello Riario) 、トンマーゾ・リアーリオ (Tommaso Riario) 、アゴスティーノ・スピノーラ (Agostino Spinola) と特定されている[1][7]

ギャラリー

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i Mass of Bolsena”. ヴァチカン美術館公式サイト (英語). 2023年9月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h ジェームズ・H・ベック 1976年、140頁。
  3. ^ a b c d e f 池上英洋 2009年、54-55頁。
  4. ^ a b c d e f g 三浦朱門・高階秀爾 1985年、90頁。
  5. ^ a b c d e f g h 越川倫明・松浦弘明・甲斐教行・深田麻里亜 2017年、154-156頁。
  6. ^ a b c d e f g h 石鍋真澄・堀江敏幸 2013年、74頁。
  7. ^ a b Vatican
  8. ^ Murphy, Contemporary Review. July 2005. "The Pope's Daughter".

参考文献

外部リンク


ボルセーナのミサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/23 14:59 UTC 版)

ラファエロの間」の記事における「ボルセーナのミサ」の解説

「ボルセーナのミサ」は、1263年聖変化教義疑い持っていたボヘミア僧侶が、ローマ近くボルセーナミサ行っていた際、パンから血液流れ出たという逸話描いたのであるパン載っていたテーブルクロスは、聖宝としてオルヴィエート近く保存された。ユリウス2世1506年にそこを訪れ聖宝祈り捧げた絵画中で、ユリウス2世ミサ参列してこの奇跡目撃する者として描かれている。ユリウス2世祭壇の左に跪いており、その後ろにローマ教皇庁役人立っているのが描かれている。ラファエロユリウス2世を、奇跡に対して静かに祈り捧げる姿で描いており、13世紀目撃したであろう世俗人々とは位が違うことを表している。

※この「ボルセーナのミサ」の解説は、「ラファエロの間」の解説の一部です。
「ボルセーナのミサ」を含む「ラファエロの間」の記事については、「ラファエロの間」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ボルセーナのミサ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ボルセーナのミサ」の関連用語

ボルセーナのミサのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ボルセーナのミサのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのボルセーナのミサ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラファエロの間 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS