ラファエロ・サンティ
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フィレンツェ絵画からの影響
ローマに落ち着くまでのラファエロは「放浪の」人生を送った。北イタリアの様々な主要都市で絵画を手がけ、フィレンツェでは1504年ごろからかなりの長期間にわたって滞在している。しかしながら、1504年から1508年のフィレンツェの公式記録によれば、ラファエロは常時フィレンツェに居住していたわけではない[23]。また、ウルビーノ公子からフィレンツ行政長官へ宛てた、1504年10月の日付が入った書簡が残っており、「この書簡の持参者はウルビーノの画家ラファエロです。芸術的才能に溢れるこの青年は、フィレンツェでさらなる修行を行うことを決めました。彼の父親は極めて立派な人物であり、私も非常に尊敬しています。その息子は、とても聡明で礼儀正しいことに定評がある青年で、私も彼に大きな愛情を抱いています……」と記されている[24]。
ラファエロはペルジーノのもとで修行していたころから、最先端のフィレンツェ美術を取り入れつつ自身の作風を確立していった。1505年ごろに制作されたペルージャのフレスコ画には、ヴァザーリがラファエロの友人と書いているフィレンツェの画家フラ・バルトロメオの影響を受けたと思われる、新しい作風の人物像が描かれている。しかしながらこの時期にラファエロが描いた作品にもっとも直接的な影響を与えたのは、1500年から1506年にかけてフィレンツェに戻っていたレオナルド・ダ・ヴィンチだった。レオナルドの作品の影響のもとラファエロが描く人物像は、より生き生きとした複雑な姿勢をとったものへと変化していった。ラファエロが描く絵画は未だ平穏なものが多かったが、裸身で争う男性のデッサンなどはフィレンツェで修行を重ねたこの時期に熱中したものの一つである。
ほかにもレオナルドのモナリザを真似たと思われる、斜め前を向いた三角の構成で若い女性を描いたドローイングがあるが、作風は完全にラファエロ独自のものといえる。また、レオナルドが創始した「聖家族」「聖母子」を三角の構成で描く手法もラファエロは取り入れており、この構成で描かれた聖家族や聖母子はラファエロの絵画の中でも非常に有名な作品が多い。イギリス王室のロイヤル・コレクションが所蔵する、ラファエロが模写したレオナルドの『レダと白鳥』(模写が数点残っているが、レオナルドのオリジナルは現存せず)のドローイングがあり、ラファエロの『アレクサンドリアの聖カタリナ』のカタリナのポーズ(コントラポスト)は、レオナルドの『レダと白鳥』に描かれているレダのポーズを真似ている[25]。また、レオナルドが完成したといわれる絵画技法のスフマートもラファエロは自身の技法として昇華しており、微妙な人体表現や人物相互の感情表現として、レオナルドのスフマートよりも自然なかたちで作品に取り入れた。このような最先端の絵画技法を取り入れながらも、ラファエロの作品からペルジーノ由来の柔らかで清澄な光が消えることはなかった[26]。
レオナルドはラファエロよりも30歳年長で、当時ローマで活動していたミケランジェロはラファエロよりも7歳年長だった。ミケランジェロはレオナルドを嫌っており、後年ローマで活動したラファエロのことも自分に対して陰謀をめぐらす若造として更に嫌っていた[27]。ラファエロはすでに多くの作品をフィレンツェで描いていたが、その後数年で全く異なる方向性の作風に移行しつつあった。古代ローマのサルコファガスの装飾彫刻にヒントを得たともいわれる[28]、ボルゲーゼ美術館が所蔵する祭壇画中央パネル『キリストの埋葬』(1507年)の画面最前部には、様々なポーズをした人物が多数描かれている。美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンは、ミケランジェロの『聖家族』(1507年頃、ウフィツィ美術館)に描かれている聖母マリアの影響が、『十字架降下』の画面右端でひざまずいている女性に見られるとしているが、その他の人物構成はミケランジェロ、あるいはレオナルドの作風とは全く別物である。完成当初から注目され、後年になってボルゲーゼ家 (en:House of Borghese) によってペルージャへと持ち去られた『キリストの埋葬』はラファエロ独自の作品として評価されている。そして、ラファエロはルネサンス美術の特徴とも言える古典主義への興味を徐々に失っていったのである[29]。
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『アンシデイの聖母』(1505年頃)
ナショナル・ギャラリー所蔵。
ペルジーノからの影響がなくなり始めた時期の作品。 -
『カーネーションの聖母』(1506年 - 1507年頃
ナショナル・ギャラリー所蔵。 -
『アレクサンドリアの聖カタリナ』(1507年)
ナショナル・ギャラリー所蔵。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『レダと白鳥』のレダのポーズを取り入れている[30]。
注釈
- ^ 「ラファエロ・ダ・ウルビーノ」(Raffaello da Urbino)、「ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ (Rafael Sanzio da Urbino)」などとも表記される。「サンティ」もラテン語表記の「サンティウス (Santius)」と表記されることがある。また、ラファエロ自身が書類などに署名する際にはラテン語の「ラファエル・ウルビナス (Raphael Urbinas)」を使用していた [1]。
- ^ ユリウス2世はとくに読書家というわけではなかった。その死後に残された書籍は220冊で、当時としてはそれなりの蔵書数だったが専用の図書室が必要なものではなかった。壁に書架もなかったこの専用図書館名は1527年のローマ略奪で破壊されてしまった [33]。
- ^ 「イル・バヴィエラ (Il Baviera)」は「バイエルン人 (the Bavarian)」を意味すると考えられる。当時のローマにはドイツ出身の画家も多く、もしカロッチもドイツ出身だったとすれば、1527年のローマ略奪時にマルカントニオから多くの版画原版の銅板を奪ったことの説明になりうる。[71]。
- ^ マルガリータ・ルティの肖像画と考えられている『ラ・フォルナリーナ』には左胸に右手を添えた女性が描かれている。美術史家や研究者のなかには、このポーズは愛情を表す古典的なポーズを装っているが、ルティが乳がんに罹患しており胸部に腫瘍があることを表現しているのだと考える者もいる[75]。
- ^ 多くの美術史家や研究者がヴァザーリが記録しているこの死因を否定している。17世紀から18世紀のイタリア人医師ベルナルディーノ・ラマツィーニは1700年の著書『働く人の病 (De morbis artificum)』で、当時の画家たちが「座り続ける暮らしを送っており、その結果うつ病になる」ことがよくあり「水銀や鉛が含まれた絵具」を使用していたために短命だったとし、1915年にブファラーレは「肺炎か腸チフス」、ポルティグリオッティは「肺疾患」、ヨアニデスは「働きすぎによる過労」だったとしている。またラファエロが死去した年齢にも複数の説があり、ラファエロと同時代のイタリア人貴族マルカントニオ・ミヒル (en:Marcantonio Michiel) は34歳、パンドルフォ・ピコやジローラモ・リッポマーノは33歳説をそれぞれ唱えている[76]。
- ^ イギリス Amazon で「ルネサンス」関連のベストセラー上位25冊のうち、タイトルに入っている名前としてはレオナルドが5冊、ミケランジェロが3冊、そしてラファエロが1冊となっている[86]。
出典
- ^ Gould p.207
- ^ Jones and Penny, p. 1 and 246. ラファエロは37歳の誕生日に死去した。複数の記録によれば、ラファエロは生誕日、死去日はどちらも聖金曜日となっているためだが、異説もある。
- ^ See, for example Honour, Hugh; John Fleming (1982). A World History of Art. London: Macmillan. p. 357
- ^ Vasari, p. 208, 230 and passim.
- ^ Urbino: The Story of a Renaissance City By June Osborne, p.39 on the population, as a "few thousand" at most; even today it is only 15,000 without the students of the University
- ^ Jones and Penny, pp. 1 - 2
- ^ Vasari:p. 207 & passim
- ^ Jones & Penny:204
- ^ Vasari, at the start of the Life. Jones & Penny:5
- ^ アシュモレアン博物館 “Image”. z.about.com. 2007年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月15日閲覧。
- ^ Jones and Penny: pp. 4 - 5, p. 8 and 20
- ^ Simone Fornari in 1549-50, see Gould:207
- ^ Jones & Penny:8
- ^ Jones & Penny:2-5
- ^ contrasting him with Leonardo and Michelangelo in this respect. Wölfflin:73
- ^ ミシェル・フイエ『イタリア美術』文庫クセジュ、白水社、2012年、60頁。
- ^ Jones and Penny:17
- ^ 1789年の地震で大きな損傷を受けた。
- ^ Dates are taken from the Vatican Pinacotheca website
- ^ Jones and Penny:pp. 5 - 8
- ^ One surviving preparatory drawing appears to be mostly by Raphael; quotation from Vasari by - Jones and Penny:p. 20
- ^ “Image”. szepmuveszeti.hu. 2012年8月16日閲覧。
- ^ Gould:207-8
- ^ Jones and Penny:5
- ^ National Gallery, London Jones & Penny:p. 44
- ^ Jones & Penny:21-45
- ^ Vasari, Michelangelo:251
- ^ Jones and Penny:p. 43
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- ^ The Royal Collection. “Gold ring with an onyx cameo of Ariadne”. royalcollection.org.uk. 2010年8月26日閲覧。
- ^ Jones & Penny:49, differing somewhat from Gould:208 on the timing of his arrival
- ^ Vasari:247
- ^ Jones & Penny:4952
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- ^ Jones & Penny:49-128
- ^ Following The School of Athens, "Who is Who?" Archived 2006年7月15日, at the Wayback Machine. by Michael Lahanas
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- ^ Craig Hugh Smyth, Mannerism & Maniera, 1992, IRSA Vienna, ISBN 3-900731-33-0
- ^ Jones and Penny:pp. 146 - 147, 196-197, and Pon:pp. 82 - 85
- ^ Jones and Penny:p. 147, 196
- ^ Vasari, Life of Polidoro online in English Maturino for one is never heard of again
- ^ Vasari:p. 207, 231
- ^ See for example, the en:Raphael Cartoons
- ^ Jones & Penny:pp. 163 - 167 and passim.
- ^ The direct transmission of training can be traced to some surprising figures, including Brian Eno, Tom Phillips and Frank Auerbach (Tomphillips.co.uk)
- ^ Vasari (full text in Italian) pp197-8 & passim; see also Getty Union Artist Name List entries
- ^ Jones & Penny:pp. 215 - 218
- ^ Jones & Penny:pp. 210 - 211
- ^ Jones & Penny:pp. 221 - 222
- ^ Jones & Penny:p. 219 - 220
- ^ Jones and Penny:p. 226 - 234; Raphael left a long letter describing his intentions to the Cardinal, reprinted in full on pp.247 - 248.
- ^ Jones & Penny:pp. 224(quotation) - 226
- ^ Jones & Penny:205 The letter may date from 1519, or before his appointment
- ^ GB Armenini (1533-1609) De vera precetti della pittura(1587), quoted Pon:p. 115
- ^ Jones & Penny:p. 58 & ff; 400 from Pon:p. 114
- ^ Ludovico Dolce (1508-68), from his L'Aretino of 1557, quoted Pon:p. 114
- ^ quoted Pon:p. 114, from lecture on The Organization of Raphael's Workshop, pub. Chicago, 1983
- ^ Not surprisingly, photographs do not show these well, if at all. Leonardo sometimes used a blind stylus to outline his final choice from a tangle of different outlines in the same drawing. Pon:pp. 106-110.
- ^ Lucy Whitaker, Martin Clayton, The Art of Italy in the Royal Collection; Renaissance and Baroque, p.84, Royal Collection Publications, 2007, ISBN 978-1-902163-29-1
- ^ Pon:p. 104
- ^ National Galleries of Scotland
- ^ Pon:102. See also a lengthy analysis in: Landau:118 ff
- ^ The enigmatic relationship is discussed at length by both Landau and Pon in her Chapters 3 and 4.
- ^ Pon:86-87 lists them
- ^ Jones and Penny:82, see also Vasari
- ^ Pon:pp. 95 - 136 & passim; Landau:pp. 118 - 160, and passim
- ^ “Lucretia”. メトロポリタン美術館. 2010年8月26日閲覧。
- ^ a b Vasari:pp. 230 - 231
- ^ "The Portrait of Breast Cancer and Raphael's La Fornarina", The Lancet, December 21, 2002/December 28, 2002.
- ^ Shearman:p. 573.
- ^ Vasari:p. 231
- ^ André Chastel, Italian Art,p. 230, 1963, Faber
- ^ Walter Friedländer, Mannerism and Anti-Mannerism in Italian Painting, p. 42 (Schocken 1970 edn.), 1957, Columbia UP
- ^ Blunt:76
- ^ See Jones & Penny:pp. 102 - 104
- ^ The 1772 Discourse Online text of Reynold's Discourses The whole passage is worth reading.
- ^ Wölfflin:p.82,
- ^ Ruskin, Pre-Raphaelitism, S. 127 online at Project Gutenburg
- ^ Berenson, Bernard, Italian Painters of the renaissance, Vol 2 Florentine and Central Italian Schools, Phaidon 1952 (refs to 1968 edn), p.94
- ^ “Bestsellers in Renaissance”. Amazon.com. 2010年8月26日閲覧。
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