ダグラス・マッカーサー 経歴(連合国軍最高司令官)

ダグラス・マッカーサー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 06:45 UTC 版)

経歴(連合国軍最高司令官)

厚木飛行場に進駐

バターン号厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー

1945年8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告した。急逝したルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領は、一度も会ったことがないにもかかわらずマッカーサーのことを毛嫌いしており、日本の降伏に立ち会わせたのちに本国に召還して、名誉ある退役をしてもらい、別の誰かに日本占領を任せようとも考えたが、アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦議会にも多くのマッカーサー崇拝者がいたこともあり、全く気が進まなかったが以下の命令を行った[234]

  • 貴官をこれより連合国軍最高司令官[注釈 8] に任命する。貴官は日本の天皇、政府、帝国軍総司令部の、正当に承認された代表者たちに降伏署名文書を要求し、受理するために必要な手続きを踏まれたい。

マッカーサーは、海軍のニミッツがその任に就くと半分諦めていたので、太平洋戦争中にずっと東京への先陣争いをしてきたニミッツに最後に勝利したと、この任命を大いに喜んだ[234]

マッカーサーの日本への進駐に対しては、8月19日に河辺虎四郎参謀次長全権とする使節団が、マッカーサーの命令でマニラまで緑十字飛行し入念な打ち合わせが行われた。日本側は10日もらわないと連合軍の進駐を受け入れる準備は整わないと訴えたが、応対したマッカーサーの副官サザーランドからは、5日の猶予しか認められず、8月26日先遣隊進駐、8月28日にマッカーサーが神奈川県厚木海軍飛行場に進駐すると告げられた[235]。マッカーサー本人は最後まで使節団と会うことはなかったが、これは自分が天皇の権威を引き継ぐ人間になると考えており、自らそのようにふるまえば、日本人がマッカーサーに対して天皇に接するような態度をとるだろうと考えていたからであった[236]。進駐受入委員会の代表者は有末精三中将に決定したが、肝心の厚木には海軍航空隊第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が徹底抗戦を宣言して陣取っており、マッカーサーの搭乗機に体当たりをすると広言していた(厚木航空隊事件)。8月19日に小園がマラリアで高熱が出て病床に伏したのを見計らって[237][要文献特定詳細情報]、8月22日に高松宮宣仁親王が厚木まで出向いて、残る航空隊の士官、将兵らを説得してようやく厚木飛行場は解放された。しかし、解放された厚木飛行場に有末ら受入委員会が乗り込むと、施設は破壊され、滑走路上には燃え残っている航空機が散乱しているという惨状であった。すでに軍の組織は崩壊しており、厚木飛行場の将兵や近隣住民の中でも降伏に不満を抱いている者も多く、有末の命令をまともに聞く者はいなかったので、仕方なく、海軍の工廠員を食事提供の条件で滑走路整備に当たらせたが、作業は遅々として進まず、最後は1,000万円もの大金で業者に外注せざるを得なくなった[238]

その後、マッカーサー司令部より、先遣隊が28日、マッカーサー本隊が30日に進駐を延期するという知らせが届いたため、日本側はどうにか厚木飛行場の整備を間に合わせることができた。28日には予定どおりにマッカーサーの信頼厚いチァーレス・テンチ大佐を指揮官とする先遣隊が輸送機で厚木飛行場に着地し、有末ら日本側とマッカーサー受け入れの準備を行った。特に問題となったのは、厚木に到着したマッカーサーらが当面の宿舎となる横浜の「ホテルニューグランド」まで移動する輸送手段であった。日本側に準備が命じられたが、空襲での破壊により、まともに使い物になる乗用車があまり残っておらず、日本側はどうにか50台をかき集めたが、中には木炭車やら旧式のトラックが含まれており、先導車は消防車であった[239]。それでも、マッカーサーら司令部幕僚には自決した阿南惟幾陸軍大臣の公用車であったリンカーン・コンチネンタルを含む、閣僚らの高級公用車が準備されたが、8月29日までにそれら高級車は全て先遣隊のアメリカ軍将兵に盗難されてしまった。困惑した有末がテンチにうったえたところ、テンチは即対応して8月30日の午前4時までにすべての公用車を取り戻した[240]

8月29日に沖縄に到着したマッカーサーは、8月30日の朝に専用機「バターン号」で厚木に向けて5時間の飛行を開始した。マッカーサーに先立ちアメリカ軍第11空挺師団の4,000人の兵士が厚木に乗り込み護衛しているとは言え、つい先日まで徹底抗戦をとなえていた多数の敵兵が待ち受ける敵本土に、わずかな軍勢で乗り込むのは危険だという幕僚の主張もあったが、マッカーサーは日露戦争後に父親アーサーの副官として来日したときの経験により[注釈 9][241]、天皇の命で降伏した日本軍兵士が反乱を起こすわけがないと確信していた[242]。マッカーサーが少数の軍勢により、空路で厚木に乗り込むことを望んだのは、海兵隊の大部隊を率いて日本本土上陸を目指して急行している、ハルゼーら海軍との先陣争いに勝つためと、この戦争でマッカーサーの勇気を示す最後の機会になると考えたからであった[243]。それでも、飛行中は落ち着きなく、バターン号の機内通路を行ったり来たりしながら、思いつくことを副官のコートニー・ホイットニー少将に書き取らせて、強調したい箇所ではコーンパイプを振り回した。それでもしばらくすると座席に座ってうたた寝したが、バターン号が富士山上空に到達すると、ホイットニーがマッカーサーを起こした。マッカーサーは富士山を見下ろすと感嘆して「ああ、なつかしい富士山だ、きれいだなコートニー」とホイットニーに語り掛けたが、その後再び睡眠に入った[244]

14時05分に予定よりも1時間早くバターン号は厚木に到着した。事前に日本側は政府要人による出迎えを打診したが、マッカーサーはそれを断って、日本側は新聞記者10名だけの出迎え列席が認められており、マッカーサーの動作は常に記者を意識したものとなった[245]。マッカーサーはタラップに踏み出すとすぐには下りず、180度周囲をゆっくりと見回したあとで、その後にタラップを下って厚木の地に降り立った。これは新聞記者の撮影を意識したものと思われ、後に、マッカーサーはこの時に撮影された写真を、出版した自伝に見開き2ページを使って掲載している。日本の新聞記者にも強い印象を与えて、同盟通信社の明峰嘉夫記者は「歌舞伎役者の菊五郎が大見得を切ったよう」と感じたという[246]。マッカーサーは記者団に対して、バターン機内で考えていた以下の第一声を発した。

メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する — 朝日新聞(1945年8月31日)

しかし、派手なことが好きなマッカーサーにしては珍しいことに、進駐初日の公式な動きはこの短い声明のみであり、日本のマスコミの扱いも意外に小さく、朝日新聞はマッカーサー来日の記事は一面ですらなく、紙面の中央ぐらいで、マッカーサーが大見得を切りながらタラップを降りた写真も掲載されなかった[245]

横浜に移動

その後マッカーサー一行は日本側が準備した車両でホテルニューグランドに向かった。ニューグランドは1937年にマッカーサーがジーンとニューヨークで結婚式を挙げたのち、任地のフィリピンに帰る途中に宿泊した思い出のホテルであった[247]

厚木から横浜までの道路の両側には30,000名を超す日本軍の兵士が銃剣をつけた小銃を構えて警護にあたっていたが、兵士はマッカーサーらの車列に背を向けて立っていた。これまでは、兵士が行列に顔を向けないのは天皇の行幸のときに限られており、明確にアメリカに恭順の意を示している証拠であったが、幕僚らは不測の事態が起こらないか神経を尖らせているなかで、マッカーサーだけがこの光景を楽しんでいた[244]

戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式

戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に署名するマッカーサー、後ろに立っているのは手前がアメリカ軍ウエインライト中将、奥がイギリス軍パーシバル中将

日本の降伏の受け入れ方として、連合軍内でも様々な意見がありイギリス軍総司令のルイス・マウントバッテン伯爵(のちインド総督海軍元帥)は、昭和天皇がマニラまで来てマッカーサーに降伏すべきと考えていたが、マッカーサーはそのような相手に屈辱を与えるやり方はもはや時代遅れであり、日本人を敗戦に向き合わせるために、威厳に溢れた戦争終結の儀式が必要と考えた。かつて、元部下のアイゼンハワーがドイツの降伏を受け入れるとき、ドイツではなくフランスの地で、報道関係者が誰もいない早朝に、ドイツの将軍らに降伏文書に調印させたが、マッカーサーはそれも全くの間違いと捉え、東京で全世界のメディアが注目し、後世に残す形で降伏調印式をおこなうこととした[248]

降伏調印式は、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で行われることとなった。ミズーリ艦には、マシュー・ペリー提督が日本に開国を要求するため日本に来航した際に、ペリーが座乗した旗艦である外輪式フリゲート艦サスケハナに掲げられていた星条旗と[249]、2つの5つ星の将旗が掲げられていた。通常軍艦には再先任の提督の将旗の1流しか掲げられなかったが、今日はマッカーサーやその幕僚たちの機嫌を損ねないように前例を破ってマッカーサーの将旗も掲げたものであった。まずマッカーサーと幕僚らは、駆逐艦ブキャナン英語版でミズーリに乗り付けた。ミズーリではニミッツとハルゼーに出迎えられて、ハルゼーの居室に案内された。そこで3人はしばし歓談したが、ハルゼーに対しては「ブル」とあだ名で呼びかけるほど打ち解けていたが、ニミッツとはこれまでの激しい主導権争いもあって、よそよそしい雰囲気であった。豪胆なマッカーサーであったが、この日は流石に緊張したのか、歓談の途中でトイレに姿を消すとしばらくその中に籠っていた。周囲が心配していると、トイレの中からマッカーサーが嘔吐している音が聞こえたので、海軍の士官が「軍医を呼んできましょうか」とたずねたところ、マッカーサーは「すぐによくなる」と答えて断った[250]

日本側代表団は首席全権・重光葵大本営を代表し梅津美治郎ら全11名で、ミズーリに駆逐艦ランズダウン英語版で乗り換え艦上に立った。ミズーリにはイギリス、カナダ、オランダ、中華民国オーストラリアなど全9か国の連合国代表の他に、太平洋戦争初期に日本軍の捕虜となって終戦後に解放された、マッカーサーの元部下のウェインライト中将とイギリス軍のアーサー・パーシバル中将も列席した。アメリカ海軍の司令官たちも列席したが、ニミッツは最後まで特攻機を警戒しており、特攻機が突入してもアメリカ軍司令官全員が死傷することを避けるため、レイモンド・スプルーアンス提督と、マーク・ミッチャー中将は離れた場所に列席させた[251]。ミズーリ艦上には世界中のマスコミが集まり、絶好の撮影位置を奪い合っていたが、ソビエト連邦のマスコミは代表のクズマ・デレビヤンコの真後ろに立とうとした。その位置は立ち入り禁止であり、強く指示されても「モスクワから特別に指示されている」と言ってきかなかったので、ミズーリの艦長は屈強な2人の海兵隊員を呼び寄せてソ連側の記者を所定の位置まで引きずっていかせた。緊張する場面で発生したささやかな見世物に、マッカーサーや世界の代表者は面白がって見ていたが、当のデレビヤンコも加わり「すばらしい、すばらしい」と叫びながら嬉しそうに笑っていた[252]

午前9時にミズーリの砲術長が「総員、気をつけ」と叫ぶと、マッカーサーは甲板上に足を踏み出し、ニミッツとハルゼーが後につづいた。マッカーサーはそのままマイクの放列の前に進み出ると、少し間を措いて、ゆっくりとした大声で演説を開始した[253]。厚木に到着した日は短かめの声明を記者団に述べただけのマッカーサーであったが、この日の演説は長いものとなった[254]

われら主要参戦国の代表はここに集まり、平和恢復の尊厳なる条約を結ばんとしている。相異なる理論とイデオロギーを主題とする戦争は世界の戦場において解決され、もはや論争の対象とならなくなった。また地球上の大多数の国民を代表して集まったわれらは、もはや不信と悪意と憎悪の精神に懐いて会合しているわけではない。否、ここに正式にとりあげんとする諸事業に全人民残らず動員して、われらが果さんとしている神聖な目的にかなうところのいっそう高い威厳のために起ち上がらしめることは、勝者敗者双方に課せられた責務である。人間の尊厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは予の希望するところであり、また全人類の願いである。

英文; We are gathered here, representatives of the major warring powers, to conclude a solemn agreement whereby peace may be restored.

The issues involving divergent ideals and ideologies have been determined on the battlefields of the world, and hence are not for our discussion or debate.

Nor is it for us here to meet, representing as we do a majority of the peoples of the earth, in a spirit of distrust, malice, or hatred.

But rather it is for us, both victors and vanquished, to rise to that higher dignity which alone befits the sacred purposes we are about to serve, committing all of our peoples unreservedly to faithful compliance with the undertakings they are here formally to assume.

It is my earnest hope, and indeed the hope of all mankind, that from this solemn occasion a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past -- a world founded upon faith and understanding, a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish for freedom, tolerance, and justice.

演説が終わったあと、9時8分にマッカーサーが降伏文書に署名、マッカーサーはこの署名のために5本の万年筆を準備しており、それを全部使って自分の名前をサインした。それらは、ウエインライト、パーシバル、ウェストポイント陸軍士官学校、アナポリス海軍兵学校にそれぞれ贈られる予定となっていたが[255]、残る1本のパーカーのデュオフォールド「ビッグレッド」は妻ジーンへの贈り物であった[256]。その後に日本全権重光が署名しようとしたが、テロにより片足を失っていた重光がもたついたため、見かねたマッカーサーがサザーランドに命じて署名箇所を示させた。その後に梅津、他国の代表が署名を行い、全員が署名し終わったときにマッカーサーは「いまや世界に平和が回復し、神がつねにそれを守ってくださるよう祈ろう。式は終了した。」と宣言した。宣言と同時に1,000機を超す飛行機の轟音が空に鳴り響き、歴史的式典の幕を閉じた[257]

皇居では昭和天皇が首を長くして降伏調印の報告を待っていたが、重光は参内すると、同行した外務省職員加瀬俊一の作成した報告書を朗読し「仮にわれわれが勝利者であったとしたら、これほどの寛大さで敗者を包容することができただろうか」という報告書の問いに対して昭和天皇は嘆息してうなずくだけであった。加瀬はこのときの昭和天皇の思いを「マッカーサー元帥の高潔なステーツマンシップ、深い人間愛、そして遠大な視野を讃えた加瀬の報告書に昭和天皇は同意した」とマッカーサー司令部に報告している[258]

日本占領方針

連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(1950年頃撮影)

マッカーサーには大統領ハリー・S・トルーマンから、日本においてはほぼ全権に近い権限が与えられていた。連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役としてマッカーサーを補佐していたウィリアム・ジョセフ・シーボルドは「物凄い権力だった。アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例はなかった」と評した[259]。9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした(三布告も参照)。

これに対して重光葵外相は、マッカーサーに「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)[260][注釈 10]

降伏調印式から6日経過した9月8日に、マッカーサーは幕僚を連れてホテルニューグランドを出発して東京に進駐した。東京への進駐式典は開戦以来4年近く閉鎖されていた駐日アメリカ合衆国大使館で開催された。軍楽隊が国歌を奏でるなか、真珠湾攻撃時にワシントンのアメリカ合衆国議会議事堂に掲げられていた星条旗をわざわざアメリカ本国から持ち込み、大使館のポールに掲げるという儀式が執り行われた[249]

その後、マッカーサーと幕僚は帝国ホテルで昼食会に出席したが、マッカーサーは昼食会の前に、帝国ホテルの犬丸徹三社長が運転する車で都内を案内させている。車が皇居前の第一生命館の前に差し掛かると、マッカーサーは犬丸に「あれはなんだ?」と聞いた。犬丸が「第一生命館です」と答えると、マッカーサーは「そうか」とだけ答えた[261]。昼食会が終わった13時にマッカーサーは幕僚を連れて第一生命館を再度訪れ、入り口から一歩建物内に踏み入れると「これはいい」と言って、第一生命館を自分の司令部とすることに決めている[262]。犬丸は自分とマッカーサーのやり取りが、第一生命館が連合国軍最高司令官総司令部となるきっかけになったと思い込んでいたが[263]、マッカーサーは進駐直後から、連合国軍最高司令官総司令部とする建物を探しており、戦災による破壊を逃れた第一生命館と明治生命館がその候補として選ばれ、9月5日から前日まで、両館にはマッカーサーの幕僚らが何度も訪れて、資料を受け取ったり、第一生命保険矢野一郎常務ら社員から説明を受けるなどの準備をしていた。副官のサザーランドが実見し最終決定する予定であったが、犬丸に案内されて興味を持ったマッカーサーが自ら足を運び、矢野の案内で内部も確認して即決したのであった[264]。もう一つの候補となった明治生命館へは「もういい」といって見に行くこともしなかったが、結果として明治生命館も接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用された[262]

第一生命館は1938年に竣工した皇居に面する地上8階建てのビルで、天皇の上に君臨して日本を支配するマッカーサー総司令官の地位をよく現わしていた[261]。しかし、マッカーサー自身が執務室として選んだ部屋はさほど広くもなく、位置的に皇居を眺めることもできず、階下は食堂であり騒がしい音が響いていた。マッカーサーの幕僚らの方が広くて眺めもいい快適な部屋を使用していたが、マッカーサーがわざわざ部下より質素な執務室としようと考えたのは、強大な権力を有しているが、それを脱ぎ捨てれば飾り気のない武骨な軍人であるということを示そうという意図があったためである[265]。しかし、実際にはマッカーサーの幕僚らにより第一生命には「一番よい部屋を」という要望がなされ、マッカーサーの執務室として準備されたのは第一生命の社長室(当時の社長は石坂泰三)で、壁はすべてアメリカ産のクルミ材、床はナラカシコクタンなどの寄木細工でできたテューダー朝風の非常に凝った造りとなっており、第一生命館最高の部屋であった[264]

占領行政について既存の体制の維持となると避けて通れないのが、天皇制の存置(象徴天皇制への移行)と昭和天皇の戦争責任問題であるが、早くも終戦1年6か月前の1944年2月18日の国務省の外交文書『天皇制』で「天皇制に対する最終決定には連合国の意見の一致が必要である」としながらも「日本世論は圧倒的に天皇制廃止に反対である……強権をもって天皇制を廃止し天皇を退位させても、占領政策への効果は疑わしい」と天皇制維持の方向での意見を出している。また1945年に入ると、日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ[266]、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、昭和天皇自身の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派の国務長官代理ジョセフ・グルーらの進言もあり、当面は天皇制は維持して昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった[267]。これはマッカーサーも同意見であったが、ほかの連合国や対日強硬派やアメリカの多くの国民が天皇の戦争責任追及を求めていたため、連合国全体の方針として決定するまでには紆余曲折があった[注釈 11]。9月12日には記者会見で「日本は四等国に転落した。二度と強国に復帰することはないだろう」と発言した。

細谷雄一(国際政治学者、慶應義塾大学教授)は、全権を持ったマッカーサーとその側近らにより、日本人に「対米従属」という認識を植え付けられたのではないか、と指摘している[268]

戦争犯罪の追及

刑務所に収監されている本間雅晴

まずマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除であったが、軍事力のほとんどが壊滅していたドイツ国防軍と異なり、日本軍は内外に154個師団700万名の兵力が残存していた。難航が予想されたが、陸海軍省などの既存組織を利用することにより平穏無事に武装解除は進み、わずか2か月で内地の257万名の武装解除と復員が完了した。

次に優先されたのは戦争犯罪人の逮捕で、終戦前からアメリカ陸軍防諜部隊(略称CIC)がリストを作成、さらに国務省の要求する人物も加え、9月11日には第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切った。しかし東條英機が自殺未遂、小泉親彦橋田邦彦2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となったが、戦犯逮捕を指揮したCIC部長ソープは、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサーに「戦犯を亡命させてはどうか?」と提案したことがあったが、マッカーサーは「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという[269]

A級戦犯に同情的だったマッカーサーも、フィリピン戦に関する戦争犯罪訴追にはフィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束しただけに熱心であった。マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた本間雅晴中将の2人の将軍については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた[270]

山下は1945年9月3日にフィリピンのバギオにて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。山下は「一度山を下りたら、敵は二度と釈放はすまい」と覚悟はしていたが、逮捕の罪状であるマニラ大虐殺などの日本軍の残虐行為については把握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)であった[271]。参謀長の武藤章中将が、独房とは言え犯罪者のように軍司令官の山下を扱うことに激高して「一国の軍司令官を監獄に入れるとは何事だ」と激しく抗議したが受け入れられることはなかった[181]

また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある[272]。山下は拘束されたときから既に自分の運命を達観しており、独房のなかで扇子墨絵を書いたり、サインを求めてくる多くのアメリカ軍将兵や士官の求めに応じて紙幣にサインしたりして過ごしていたが、開戦の日にあわせるかのように、1945年12月8日 にマニラの軍事法廷で死刑判決を受けた[273]。マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し[274]、山下は囚人服のままマンゴーの木の傍の死刑台で絞首刑を執行された。

本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった、いわゆるバターン死の行進の責任者とされた。マッカーサーが死の行進の責任者を罰することを「聖なる義務」と意気込んでいたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なによりその首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の裁判となった[275]。本間の妻・富士子は、本間の弁護士の1人フランク・コーダ大尉の要請により、本間の人間性の証言のため法廷に立つこととなった。軍事法廷が開廷されているマニラへ出発前に、朝日新聞の取材に対し富士子は「私は決して主人の命乞いに行くという気持ちは毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、飾り気のない真実の本間を私の力で全世界の人に多く知って頂きたいのです」と答えていたが[276]、結局は山下裁判と同様にカンガルー法廷により、判決は死刑であった。判決後富士子は、弁護士の一人ファーネス大尉と連れだってマッカーサーに会った。マッカーサーの回想では、富士子は本間の命乞いに来たということにされているが[277]、富士子によると「夫は敵将の前で妻が命乞いをするような事を最も嫌うので命乞いなんかしていない。後世のために裁判記録のコピーがほしいと申し出たが、マッカーサーからは女のくせに口を出すなみたいな事を言われ拒否された」とのことであった[278]

しかし、富士子の記憶による両者の会話のなかで、「本間は非常に立派な軍人でございます。もし殺されますとこれは世界の損失だと思うのです」や「(マッカーサー)閣下に彼の裁判記録をもう一度全部読んでいただけないでしょうか?」という富士子の申し出を、マッカーサーが本間の命乞いと感じ、また富士子が「死刑の判決は全てここに確認を求めて回ってくるそうでございますが、閣下も大変でございますのね」と皮肉を込めて話したことに対し、マッカーサーが「私の仕事に口を入れないように」と言い放ったのを富士子が傲慢と感じて「女のくせに口を出すな」と言われたと捉えた可能性も指摘されている[279]。本間の死刑判決は山下の絞首刑に対して、軍人としての名誉に配慮した銃殺刑となり、軍服の着用も許された[280]

かつての“好敵手”に死刑にされた本間であったが、1946年4月3日の死刑執行直前には、牢獄内に通訳や教戒師や警備兵を招き入れて、「僕はバターン半島事件で殺される。私が知りたいことは広島や長崎の数万もの無辜の市民の死はいったい誰の責任なのかということだ。それはマッカーサーなのかトルーマンなのか」と完ぺきな英語で話すと、尻込みする一同に最後に支給されたビールサンドウィッチをすすめて「私の新しい門出を祝ってください」と言って乾杯した。その後トイレに行き「ああ、米国の配給はみんな外に出してきた」と最後の言葉を言い残したのち銃殺刑に処された[281]。 死刑執行後に富士子は「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だったのです」と感想を述べている[278]

後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きをとったリンチ」などとも言われた[282]。1949年に山下の弁護人の内の1人であったA・フランク・リール大尉が山下裁判の真実をアメリカ国民に問うために『山下裁判』という本を出版した。日本でも翻訳出版の動きがあったがGHQが許可せず、日本で出版されたのはGHQの占領が終わった1952年であった[283]

昭和天皇との初会談

GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、昭和天皇の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらが主導権をとったかは不明であるが[注釈 12]、天皇よりアメリカ側に会見を申し出た。マッカーサー個人は「天皇を会談に呼び付ければ日本国民感情を踏みにじることになる……私は待とう、そのうち天皇の方から会いに来るだろう」と考えていたということで[284]、マッカーサーの要望どおり昭和天皇側より会見の申し出があった時には、マッカーサーと幕僚たちは大いに喜び興奮した。昭和天皇からは目立つ第一生命館ではなく、駐日アメリカ大使公邸で会談したいとの申し出であった[285]。しかし日本側の記録によると、外務大臣に就任したばかりの吉田茂が、第一生命館でマッカーサーと面談した際に、マッカーサーが何か言いたそうに「モジモジ」していたので、意を汲んで昭和天皇の訪問を申し出、マッカーサー側から駐日アメリカ大使館を指示されたとのことで、日米で食い違っている[286]

1945年9月27日、大使館公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。会談の内容については日本とアメリカ両関係者より、内容の異なる様々な証言がなされており(#昭和天皇との会談を参照)、詳細なやり取りは推測の域を出ないが、マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、その後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった[287]

その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日、29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。歌人斎藤茂吉は、その日の日記に「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と書き込むほどであったが、多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見どおり、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった[288]。ちなみにその写真を撮影したのは、ジェターノ・フェーレイス英語版である[289]

連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際にマッカーサーが見舞いに訪れ、後に東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという[290]

報道管制

いわゆる『バターン死の行進』のアメリカ本国の報道管制を激しく非難したマッカーサーであったが[128]、日本統治では徹底した報道管制を行っている。バギオで戦犯として山下が逮捕された直後、9月16日の日本の新聞各紙に一斉に「比島日本兵の暴状」という見出しで、フィリピンにおける日本兵の残虐行為に関する記事が掲載された。これはGHQの発表を掲載したもので、山下裁判を前にその意義を日本国民に知らしめ、裁判は正当であるとする周到な世論工作であった[291]。毎日新聞の森正蔵(東京本社社会部長)によれば、これはマッカーサーの司令部から情報局を通じて必ず新聞紙に掲載するようにと命令され、記事にしない新聞は発行部数を抑制すると脅迫されていたという[292]

実際に朝日新聞はこのGHQの指示について、「今日突如として米軍がこれを発表するに至った真意はどこにあるかということである。(連合軍兵士による)暴行事件の発生と、日本軍の非行の発表とは、何らかの関係があるのではないか」と占領開始以降に頻発していた連合軍兵士による犯罪と、フィリピンにおける日本軍の暴虐行為の報道指示との関連性を疑う論説を記事に入れたところ、マッカーサーは朝日新聞を1945年9月19日と20日の2日間の発行停止処分としている[293]

その後、マッカーサーと昭和天皇の初面談の際に撮影された写真が掲載された新聞について、内務大臣山崎巌が畏れ多いとして新聞の販売禁止処分をとったが、連合国軍最高司令官総司令部[注釈 13](SCAPはマッカーサーの職名、最高司令官、つまり彼のこと) の反発を招くことになり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これをきっかけとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、GHQが検閲を行うこととし、日本の報道を支配下に置いた。また、連合国と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。

マッカーサーの日本のマスコミに対する方針を如実に表しているのは、同盟通信社が行った連合軍に批判的な報道に対し、1945年9月15日にアメリカ陸軍対敵諜報部の民間検閲主任ドナルド・フーバー大佐が、河相達夫情報局総裁、大橋八郎日本放送協会会長、古野伊之助同盟通信社社長を呼びつけて申し渡した通告であるが「元帥は報道の自由に強い関心を持ち、連合軍もそのために戦ってきた。しかし、お前たちは報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。従って元帥はより厳しい検閲を指令された。元帥は日本を対等とは見做していないし、日本はまだ文明国入りする資格はない、と考えておられる。この点をよく理解しておけ。新聞、ラジオに対し100%の検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合軍に対するいかなる批判も絶対許さない」と強い口調で申し渡している[294]

連合軍占領下の日本

マッカーサーの強力な指導力の下で、五大改革などの日本の民主化が図られ、日本国憲法が公布された。

大統領選

連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の大統領選挙への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んだ。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明に最も過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞はマッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。

マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に[295]シカゴ・トリビューン社主のロバート・R・マコーミック英語版や、同じく新聞社主のウィリアム・ランドルフ・ハーストがいた。『ニューヨーク・タイムズ』紙もマッカーサーが有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、27名の代議士のうちでマッカーサーに投票したのはわずか8名と惨敗、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。5月10日には陸軍参謀総長になっていたアイゼンハワーが来日したが、マッカーサーと面談した際に「いかなる軍人もアメリカの大統領になろうなどと野心を起こしてはならない」と釘を刺している。しかしマッカーサーは、そのアイゼンハワーのその忠告に警戒の色を浮かべ、受け入れることはなかった[296]

6月の共和党大会では、マッカーサーを推すハーストが数百万枚のチラシを準備し、系列の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』の新聞配達員まで動員し選挙運動をおこない、マッカーサーの応援演説のために、日本軍の捕虜収容所から解放された後も体調不調に苦しむジョナサン・ウェインライトも呼ばれたが、第1回投票で1,094票のうち11票しか取れず、第2回で7票、第3回で0票という惨敗を喫し、結局第1回投票で434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された[297]

日本では、マッカーサーへの批判記事は検閲されていたため、選挙戦の情勢を正確に伝えることができなかった。『タイム』誌は「マッカーサーを大統領にという声より、それを望まないと言う声の方が大きい」と既に最初のウィスコンシンの惨敗時に報道していたが、日本ではマッカーサーより有力候補者であったアーサー・ヴァンデンバーグロバート・タフトの影は急激に薄くなっていった、などと事実と反する報道がなされていた[298]。その結果、多くの日本国民が共和党大会での惨敗に驚かされた。その光景を見た『ニューヨーク・タイムズ』は「日本人の驚きは多分、一段と大きかったことだろう。……日本の新聞は検閲によって、アメリカからくるマッカーサー元帥支持の記事以外は、その発表を禁じられていたからである。そのため、マッカーサー元帥にはほとんど反対がいないのだという印象が与えられた」と報じている[299]

大統領選の結果、大統領に選ばれたのは現職のトルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。イギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。


注釈

  1. ^ マッカーサ、マックアーサーなどとカナ表記される場合もある。とりわけ、終戦後における日本においては、新聞を中心としたマスコミにおいて「マックアーサー」という表記が使用されていた。
  2. ^ 議会が1939年8月に司令官(4人)を中将職とするまで、第一次世界大戦後のアメリカ陸軍に中将はいなかった。An Act To provide for the rank and title of lieutenant general of the Regular Army.
  3. ^ フィリピン防衛計画作成の作業料という名目で、7年間にわたり多額の金をコミッションとして渡す契約。マッカーサーはアメリカ軍人の任務として防衛計画を作成するのであり、その見返りを受け取ることはアメリカ国内法で違反だった。
  4. ^ アジア艦隊のトップが大将なのは、上海などで砲艦外交をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった。
  5. ^ マッカーサーがウェストポイント校長時代、アナポリス校長はハートであった。
  6. ^ リパブリック讃歌の替え歌)ダグアウト・ダグ・マッカーサー 岩の上に寝そべって震えてる。どんな爆撃機にも突然のショックにも安全だって言うのにさ。ダグアウト・ダグ・マッカーサーはバターンで一番うまいもの食っている。兵隊は飢え死にしようってのにさ。
  7. ^ 1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死、行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死、行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名
  8. ^ Commander for the Allied Powers(略称 SCAP)
  9. ^ マッカーサーが日本陸軍の兵営を訪れたとき、日本陸軍はコレラの流行に悩まされていた。軍医が処方する薬を兵士が服用せず、困った軍医が薬箱に「薬を服用するのは天皇陛下の御命令である」と書いたところ、全兵士が薬を服用した様子を見たマッカーサーは天皇命令の絶対性を思い知らされている。
  10. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、無条件降伏があくまで日本軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  11. ^ 1945年にアメリカで行われた世論調査では、天皇が有罪であるという意見が合計70%、うち死刑まで求めていたのが33%、それを受けて9月10日にアメリカ上院で「天皇を戦犯裁判にかけることをアメリカの方針とする」という決議がなされている。
  12. ^ 児島襄の『東京裁判』によれば民間情報教育局局長カーミット・R・ダイク准将がマッカーサーの意思を汲んで日本側にはたらきかけたという証言がある。
  13. ^ : General Head Quarters of the Supreme Commander for the Allied Powers、略称 GHQ/SCAP
  14. ^ トルーマン側に示された正式な理由は「マッカーサーが長い期間、東京を離れるのは危険である」とされた。
  15. ^ マッカーサーが12月24日に提出した「進行妨害標的リスト」には原爆投下目標として26か所が示されているとともに、敵地上軍への使用として4発、中国東北部にある敵航空機基地に4発の原爆使用が要請されていた。
  16. ^ : Old soldiers never die; they just fade away.
  17. ^ 松井は出版する気であったが出版に至らず、遺族の意向により全面的な公開はされておらず、一部が『朝日新聞』で記事となった。
  18. ^ 手塚治虫の漫画『どついたれ』でマッカーサーを恨む山下哲が、第一生命館前の人ごみに紛れてマッカーサーを暗殺しようとする描写がある。
  19. ^ 父アーサーも南北戦争で叙勲されており、2016年時点で親子揃って名誉勲章を受けたのはマッカーサー親子だけとなる
  20. ^ 側近2名の回想だが、研究が進んだ今日では、双方とも(回想録と同様に人物研究以外では)史料としての価値は低いとされる。
  21. ^ ラッセル・ブラインズは、当時AP通信東京支局長で、マッカーサーに最も近いジャーナリストと言われた。

出典

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