ダグラス・マッカーサー
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ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur | |
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フィリピンにて(1945年8月2日) | |
生誕 |
1880年1月26日 アメリカ合衆国・アーカンソー州リトルロック |
死没 |
1964年4月5日(84歳没) アメリカ合衆国・ワシントンD.C. |
所属組織 | アメリカ陸軍フィリピン陸軍 |
軍歴 | 1903年6月 - 1964年4月 |
最終階級 | |
指揮 | |
除隊後 | レミントンランド会長 |
墓所 | アメリカ合衆国・バージニア州ノーフォーク |
署名 |
略歴
1880年にアメリカ合衆国アーカンソー州で生まれ、1903年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した[2]。
1918年に第一次世界大戦に参戦し、師団参謀長として13の勲章を受勲した[3]。1919年には史上最年少で同士官学校の校長に就任、1925年には最年少でアメリカ軍の少将に就任、1930年には最年少でアメリカ軍参謀総長に就任した[3]。
1935年にフィリピン軍の創設に携わり[3]、翌1936年にはフィリピン軍の元帥となった[2]。第二次世界大戦では大日本帝国からフィリピンを奪還し、1944年にアメリカ陸軍元帥に就任した[3]。
第二次世界大戦後、1945年から1950年まで連合国軍最高司令官(GHQ)として各種の占領政策を行って[2]民主化を進めたほか、国民主権・平和主義などを柱とする日本国憲法の制定に影響を与えた[3]。
1950年には朝鮮戦争における国際連合軍総司令官として仁川上陸作戦を成功させたが、中華人民共和国の人民解放軍との戦いに劣勢がみられ、北部のピョンヤン制圧から38度線まで撤退した。その後核を使うなどと全面戦争を主張したことなどからアメリカ大統領のトルーマンと戦略が対立し、1951年に解任された[2]。
退任後は1952年の大統領選挙に出馬することを試みたが、支持が集まらずに断念した。製造企業レミントンランド社の会長に就任し、1964年に84歳で死去した[3]。
経歴(青年期まで)
生い立ち
1880年1月26日、アーカンソー州リトルロックに誕生する。マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で、キャンベル氏族の流れを汲み、スコットランド独立戦争でロバート1世に与して広大な領土を得たが、その後は領主同士の勢力争いに敗れ、没落したと伝えられている。1828年、当時少年だった祖父のアーサー・マッカーサー・シニアは家族に連れられてスコットランドからアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった[4]。
父のアーサー・マッカーサー・ジュニアは16歳の頃に南北戦争に従軍した根っからの軍人であり、南北戦争が終わって一旦は除隊し、祖父と同様に法律の勉強をしたが長続きせず、1866年には軍に再入隊している。1875年にニューオーリンズのジャクソン兵舎に勤務時に、ヴァージニア州ノーフォーク生まれでボルチモアの富裕な綿花業者の娘であったメアリー・ピンクニー・ハーディと結婚し、1880年に軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男としてダグラス・マッカーサーが誕生した。この頃は西部開拓時代の末期で、インディアンとの戦いのため、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5か月の時、一家はニューメキシコ州のウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地で1883年に次男のマルコムが病死している。マルコムの病死は母のメアリーに大きな衝撃を与え、残る2人の息子で特に三男ダグラスを溺愛するようになった。次いでフォート・セルデンの砦に父のアーサーが転属となり、家族も付いていった。そのためダグラスは、幼少期のほとんどを軍の砦の中で生活することとなった[5]。
その後も一家は全国の任地を転々とするが、1898年4月に米西戦争が始まると父のアーサーは准将となり、スペインの植民地であったフィリピンに出征し、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。戦争が終わり、フィリピンがスペインよりアメリカに割譲されると、少将に昇進して師団長になっていた父のアーサーはその後に始まった米比戦争でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進した[6]。しかし、1892年に兄のアーサーはアナポリス海軍兵学校に入学し、1896年には海軍少尉として任官し、弟ダグラスもウェストポイント陸軍士官学校を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンに付いていかなかった[7]。
なお、ダグラスは幼少期に母のメアリーによってフランスの風習に倣い、女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって、陸軍士官学校に入学させられることになったとも言われている。
陸軍入隊
1896年、マッカーサーは西テキサス士官学校卒業後、ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校受験に必要な大統領や有力議員の推薦状が得られなかったため、母メアリーと共に有力政治家のコネが得られるマッカーサー家の地元ミルウォーキーに帰り、母メアリーが伝手を通じて手紙を書いたところ、下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることに成功した。その後、ウェストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強したが、その受験勉強の方法は、後のマッカーサーを彷彿させるものであった。マッカーサーは試験という難関から失敗の可能性を抽出すると、それを1つ1つ取り除いていくという勉強方法をとり、目標を楽々と達成した。この受験勉強でマッカーサーは「周到な準備こそは成功と勝利のカギ」という教訓を学び、それは今後の軍人人生に大いに役立つものとなった[8]。戦略的な受験勉強は奏功し、マッカーサーは1899年6月に750点満点中700点の高得点でトップ入学した[9]。
しかし、マッカーサーは受験勉強期間中もガリ勉に終始していたわけでなく、年相応のロマンスも経験していた。マッカーサーはジョン・レンドラム・ミッチェル上院議員の娘に片思いし、彼女を口説くために、「うるわしき西部の娘よ、何より愛する君、君はなにゆえに我を愛さざるや?」という自作した詩を懐に忍ばせて、ミッチェル上院議員の家の周りをうろつくようになった。しかし、当時のマッカーサーはまったくモテず、ミッチェル上院議員の娘から相手にされることはなかった。これはマッカーサー個人の問題より、当時のアメリカでは軍服を颯爽とまとった軍人が若い女性の羨望の的であり、若い将校が休暇でミルウォーキーに帰ってくると、若い女性は軍人の周りに集まり、その中にはミッチェル上院議員の娘もいた。まだウェストポイントに入学していなかったマッカーサーは、他の平服を着た民間人と一緒にそれを横目で見ながらこそこそと隠れていなければならず、マッカーサーは「今度戦争があったら、絶対に前線で戦ってやるぞ」と心の中で誓っていた[10]。
そんな息子を溺愛して心配する母のメアリーは、マッカーサーがウェストポイントに入学すると、わざわざ学校の近くのクラニーズ・ホテルに移り住み、息子の学園生活に目を光らせることとした[11]。その監視は学業だけではなく私生活にまで及び、マッカーサーを女性から遠ざけるのに抜け目がなかった。その過保護ぶりは教官も周知の事実となり、ある日マッカーサーがメアリーの目を盗んでダンスホールで女性とキスをしているところを教官に見つかったことがあったが、ばつの悪い思いをしていたマッカーサーに対して教官は笑顔で「マッカーサー君おめでとう」とだけ言って去っていった[12]。結局メアリーはマッカーサーが卒業するまで離れなかったため、「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」とからかわれることとなった[13]。
当時のウェストポイントは旧態依然とした組織であり、上級生による下級生へのしごきという名のいじめが横行していた。父親が有名で、母親が近くのホテルに常駐し付き添っているという目立つ存在であったマッカーサーは、特に念入りにいじめられた。そのいじめは、長いウェストポイントの歴史の中で100以上も考案され、主なものでは「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈させる」「火傷する熱さの蒸し風呂責め」「ささくれだった板の上を全裸でスライディングさせる」など凄まじいものであった。そのいじめが行われる兵舎は生徒たちから「野獣兵舎」と呼ばれていた。マッカーサーはいじめを受け続け、最後は痙攣を起こして失神した。マッカーサーは失神で済んだが、新入生の中でいじめによる死亡者が出て問題化することになった[14]。報道によって社会問題化したことを重く見たウィリアム・マッキンリー大統領がウエストポイントに徹底した調査を命じ、数か月後に軍法会議が開廷された。激しいいじめを受けたマッカーサーも証人として呼ばれたが、マッカーサーは命令どおり証言すれば全校生徒から軽蔑される一方で、命令を拒否すればウエストポイントから追放されるという窮地に追い込まれることとなった。マッカーサーは熟考したあげく、既に罪を認めた上級生の名前のみ証言し、他の証言は拒否した。結局この事件は、罪を認めた生徒は一旦退学処分となったが、親族に有力者のコネがある生徒はまもなく復学し、またマッカーサーも父親アーサーが現役の将軍であったため証言拒否が問題視されることはなかった。しかし、窮地を機転と不屈の精神で乗り切ったマッカーサーは、多くの生徒から信頼を得ることができた[15]。
在学中は成績抜群で、4年の在学期間中、3年は成績トップであったが、勉強だけではなくスポーツにも熱心であった。マッカーサーは最も好きなスポーツはフットボールであったが、当時の体格は身長が180cmに対し体重が63.5㎏しかなく、この痩せ型の体型ではフットボール部に入部すらできない懸念があったので、マッカーサーは痩せ型の自分でも活躍できるスポーツとして野球を選び、自らで野球部を立ち上げた[16]。しかし、決して野球が巧いわけではなく、打撃が苦手で、守備でも右翼手としては役には立たなかった。しかし、頭脳プレーに秀でており、選球眼もよく、セーフティーバントで相手投手を揺さぶるなどして高い出塁率を誇って、試合では活躍し、チームメイトからは「不退転のダグ」と呼ばれるようになった[17]。1901年5月18日には、ウェストポイント対アナポリスのアメリカ陸海軍対抗戦にマッカーサーはスターティングメンバーとして出場し、2打席凡退後の3打席目で得意の選球眼で四球を選んで出塁すると、後の選手のタイムリーヒットで決勝のホームベースを踏んだ[18]。マッカーサーはこれらの活躍で、レター表彰(ウェストポイントの略称であるArmyの頭文字Aをジャケットやジャージなどに刺繍できる権利)を受けたが、この表彰により、マッカーサーは死の直前までAの文字が刺繍されたウェストポイントの長い灰色のバスローブを愛用し続けた[16]。しかし野球に熱中するあまり成績が落ちたため、4年生には野球をきっぱりと止め、1903年6月に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の首席で卒業した。このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)[19]。卒業後は陸軍少尉に任官した。
当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループとみなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願して第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であったフィリピンに配属された[20]。長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった。マッカーサーも副官として日本の東京で勤務した[21]。マッカーサーは日露戦争を観戦したと自らの回想記に書いているが[22]、彼が日本に到着したのは1905年10月で、ポーツマス条約調印後であり、これは、マッカーサーの回想によくある過大な記述であったものと思われ、回想記の版が重なるといつの間にかその記述は削除されている[23]。その後マッカーサーと家族は日本を出発し、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行しており、この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎・大山巌・乃木希典・黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている[24]。
その後アメリカに帰国したマッカーサーは1906年9月にセオドア・ルーズベルトの要請で、大統領軍事顧問の補佐官に任じられた。マッカーサーの手際のよい仕事ぶりを高く評価したルーズベルトはマッカーサーに「中尉、君は素晴らしい外交官だ。君は大使になるべきだ」と称賛の言葉をかけている[25]。順調な軍歴を歩んでいたマッカーサーであったが、1907年8月にミルウォーキーの地区工兵隊に配属されると、ミルウォーキーに在住していた裕福な家庭の娘ファニーベル・ヴァン・ダイク・スチュワートに心を奪われ、軍務に身が入っていないことを上官のウィリアム・V・ジャドソン少佐に見抜かれてしまい、ジャドソンは工兵隊司令官に対して「学習意欲に欠け」「勤務時間を無視して私が許容範囲と考える時間を超過して持ち場に戻らず」「マッカーサー中尉の勤務態度は満足いくものではなかった」と報告している。この報告に対してマッカーサーは激しく抗議したが、マッカーサーがミルウォーキーにいた期間は軍務に全く関心を持たず、スチュワートを口説くことだけに関心が集中していたことは事実であり、この人事評価は工兵隊司令部に是認された。これまで順調であったマッカーサーの軍歴の初めての躓きであり、結局は、ここまで入れ込んだ恋愛も実らず、今までの人生で遭遇したことのない大失敗に直面したこととなった。自分の経歴への悪影響を懸念したマッカーサーは一念発起し、自分の評価を挽回するため工兵隊のマニュアル「軍事的破壊」を作成し工兵部隊の指揮官に提出したところ、このマニュアルは陸軍訓練学校の教材に採用されることとなった。このマニュアルによって挫折からわずか半年後にマッカーサーは挫折を克服し、第3工兵隊の副官及び工兵訓練学校の教官に任命されるなど再び高い評価を受けることとなった[26]という。
その後、マッカーサーは1911年2月に大尉に昇進したが、1912年9月に父のアーサーが重い脳卒中でこの世を去った。尊敬していた父の死はマッカーサーに大きな衝撃を与え、マッカーサーはこの後生涯に渡って父の写真を持ち歩いていた。夫の死に大きなショックを受けたマッカーサーの母のメアリーは体調を崩して故郷ボルチモア病院に通院していたが、マッカーサーは少しでも側にいてやりたいと考えて、陸軍に異動願いを出していた。当時のアメリカ陸軍参謀総長は レオナルド・ウッド であったが、ウッドはかつて父アーサーの部下として勤務した経験があり、アーサーに大きな恩義を感じていたため、わざわざ陸軍省に省庁間の調整という新しい部署を作ってマッカーサーを異動させた。ワシントンに着任したマッカーサーは定期的に母を見舞うことができた。また、ウッドはマッカーサーの勤務報告書に自ら「とりわけ知的で有能な士官」と記すなど、高く評価したため、この後、急速に出世街道を進んでいくこととなった[27]。
注釈
- ^ マッカーサ、マックアーサーなどとカナ表記される場合もある。とりわけ、終戦後における日本においては、新聞を中心としたマスコミにおいて「マックアーサー」という表記が使用されていた。
- ^ 議会が1939年8月に軍司令官(4人)を中将職とするまで、第一次世界大戦後のアメリカ陸軍に中将はいなかった。An Act To provide for the rank and title of lieutenant general of the Regular Army.
- ^ フィリピン防衛計画作成の作業料という名目で、7年間にわたり多額の金をコミッションとして渡す契約。マッカーサーはアメリカ軍人の任務として防衛計画を作成するのであり、その見返りを受け取ることはアメリカ国内法で違反だった。
- ^ アジア艦隊のトップが大将なのは、上海などで砲艦外交をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった。
- ^ マッカーサーがウェストポイント校長時代、アナポリス校長はハートであった。
- ^ (リパブリック讃歌の替え歌)ダグアウト・ダグ・マッカーサー 岩の上に寝そべって震えてる。どんな爆撃機にも突然のショックにも安全だって言うのにさ。ダグアウト・ダグ・マッカーサーはバターンで一番うまいもの食っている。兵隊は飢え死にしようってのにさ。
- ^ 1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死、行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死、行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名
- ^ Commander for the Allied Powers(略称 SCAP)
- ^ マッカーサーが日本陸軍の兵営を訪れたとき、日本陸軍はコレラの流行に悩まされていた。軍医が処方する薬を兵士が服用せず、困った軍医が薬箱に「薬を服用するのは天皇陛下の御命令である」と書いたところ、全兵士が薬を服用した様子を見たマッカーサーは天皇命令の絶対性を思い知らされている。
- ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、無条件降伏があくまで日本軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
- ^ 1945年にアメリカで行われた世論調査では、天皇が有罪であるという意見が合計70%、うち死刑まで求めていたのが33%、それを受けて9月10日にアメリカ上院で「天皇を戦犯裁判にかけることをアメリカの方針とする」という決議がなされている。
- ^ 児島襄の『東京裁判』によれば民間情報教育局局長カーミット・R・ダイク准将がマッカーサーの意思を汲んで日本側にはたらきかけたという証言がある。
- ^ 英: General Head Quarters of the Supreme Commander for the Allied Powers、略称 GHQ/SCAP
- ^ トルーマン側に示された正式な理由は「マッカーサーが長い期間、東京を離れるのは危険である」とされた。
- ^ マッカーサーが12月24日に提出した「進行妨害標的リスト」には原爆投下目標として26か所が示されているとともに、敵地上軍への使用として4発、中国東北部にある敵航空機基地に4発の原爆使用が要請されていた。
- ^ 英: Old soldiers never die; they just fade away.
- ^ 松井は出版する気であったが出版に至らず、遺族の意向により全面的な公開はされておらず、一部が『朝日新聞』で記事となった。
- ^ 手塚治虫の漫画『どついたれ』でマッカーサーを恨む山下哲が、第一生命館前の人ごみに紛れてマッカーサーを暗殺しようとする描写がある。
- ^ 父アーサーも南北戦争で叙勲されており、2016年時点で親子揃って名誉勲章を受けたのはマッカーサー親子だけとなる
- ^ 側近2名の回想だが、研究が進んだ今日では、双方とも(回想録と同様に人物研究以外では)史料としての価値は低いとされる。
- ^ ラッセル・ブラインズは、当時AP通信東京支局長で、マッカーサーに最も近いジャーナリストと言われた。
出典
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固有名詞の分類
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