南北朝時代
南北朝時代(なんぼくちょうじだい)とは、中国、日本、ベトナムの歴史上で、朝廷が南北に別れた時代のことを指す。
- 南北朝時代 (中国)
- 南北朝時代 (日本)
- 南北朝時代 (ベトナム)
- 朝鮮史では、南の(統一)新羅と北の渤海が並立していた時期を南北国時代と呼ぶことがある。
- アメリカ合衆国では、南北戦争の時期にワシントンD.C.を中心とする従来の連邦政府(北部政府)とリッチモンドを中心とするアメリカ連合国政府(南部政府)が並立した。
関連項目
- 戦国時代 (曖昧さ回避)・三国時代 (曖昧さ回避) - 複数の国・地域に存在する同名の分裂抗争時代の曖昧さ回避ページ。
南北朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/31 01:19 UTC 版)
肥後時基は観応の擾乱で足利方となり、最中の1351年(観応2年)に日向国守護畠山直顕より感状を与えられる。足利義詮および九州探題今川了俊から、時基の子である肥後時充に日向征伐を求める書状が届いた。この時了俊から多禰島殿と称されたのが種子島姓の初出である。 南北朝期に畠山氏と島津氏との抗争が激化するが、肥後氏(種子島氏)は島津氏にも接近し、時充の子である肥後頼時は島津方として討死している。 南北朝合一が成ると了俊は中央へ呼び戻され、肥後氏は島津氏と和して臣従し、嫡流が種子島島主となり支配を固め、種子島氏と称した。 「種子島氏」も参照 島津氏の下で小番や御小姓与の家格を得た。
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「南北朝」の例文・使い方・用例・文例
- 南北朝
- 南北朝鮮の間の戦い
- 南北朝,室町時代における在地領主
- 南北朝時代の二つの皇統
- 南北朝鮮のうちの一方としか交流のない国々が,相互に他方とも交流をもつこと
- 南北朝鮮のうちの一方としか接触のない国々が,相互に他方とも接触をもつこと
- 三八度線という,南北朝鮮の国境線
- 南北朝鮮の統一問題
- 中国で,南北朝時代という,華南と華北の王朝が対立した時代
- 日本において,南北朝時代という,北朝と南朝とが対立した時代
- 宋朝という,中国の南北朝時代の王朝
- 中国南北朝時代に,華北にあった諸王朝
- 日本の南北朝時代に,京都に足利氏が擁立した朝廷
- 南北朝時代における,南朝側の人々
- 吉野朝という,南北朝時代に吉野にあった朝廷
- 米国,中国,ロシア,日本,南北朝鮮の6か国は,昨年8月に第1回協議を開催したが,合意に達することができなかった。
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