交響的前奏曲
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「ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲」の記事における「交響的前奏曲」の解説
「交響的前奏曲ハ短調」(Symphonisches Präludium c-Moll)は、近年のブルックナー学者によって、ブルックナーの作品に準じて論じられることがある(厳密には、作品完成までの過程の一部がブルックナーに依る可能性があるという程度の関係であり、定説には至っていない)。以下の前半の説明は、ブルックナー学者のベンヤミン=グンナー・コールス(ドイツ語版、英語版)が2006年に論じた内容に基づく(後述資料)。 この作品は、作曲家ハインリヒ・チュピック(Heinrich Tschuppik)が、叔父のルドルフ・クルツィザノフスキー(Rudolf Krzyzanowski)の遺品から、1946年前後に発見したものである。この手書き譜面は43頁からなる管弦楽スコアになっており、表紙には「Rudolf Krzyzanowski cop.1876」、最終ページには「von Bruckner」と記してあった。 この曲は早速、1948年にミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されたが、ブルックナーの作品とみなすべきかどうかは、結論が出なかった。チュピックは当時、複数のブルックナー学者とも接触し、ノヴァークも意見を求められていたのだが、チュピックが1950年に没したことから、存在が顧みられない状態が続いた。ノヴァークも、検証や出版をしないまま没した。 その後、ヴォルフガング・ヒルトル(Wolfgang Hiltl)がこの作品にまつわる諸資料を再研究した。彼は以下のような推測を下した:元々、ブルックナーが管弦楽法の練習のために書いたスコアの断章があり、クルツィザノフスキーがブルックナーよりそれを譲り受け、補作し完成させたものであろう、と。 2002年、上記の説と共にドブリンガー社より出版されたが、現在に至るまでほとんど演奏される機会がない。曲のスタイル自体は、展開のスタイルなどから、晩年のブルックナーのものではないかとの指摘もなされている。 一方、チュピックが接触した音楽家の中には、クルツィザノフスキーとマーラーの関係(交響曲第3番のピアノ編曲を共同で作成した)から、これをマーラーの習作ではないかとの推測を下す者がいた。そのような意見と共に眠っていた資料を、マーラー学者のポール・バンクス(Paul Banks)が再発見し、この曲をマーラーの習作として広く紹介した。ただしこれは、管弦楽法が、前記チュピックが発見した手書き譜面と、全く異なってしまっている。バンクスが再発見した資料には4段のパーティセル(Particell、いわゆる総譜のスケッチ)しかなかったため、アルブレヒト・ギュルシング(Albrecht Gürsching)がマーラー風に管弦楽法を補作したためである。この形で、ネーメ・ヤルヴィがシャンドスにCD録音したこともある。 以下は、別の資料(シコルスキー社のスコア)に基づく意見と思われる。 マーラーの作品としては、1876年の作とされる。ハンブルクのシコルスキーより出版された。初演は1981年3月19日、ベルリン・フィルハーモニーザールで、ローレンス・フォスター指揮のベルリン放送交響楽団(西側)。 確かにこの曲はブルックナー風の繰り返しが多いが、マーラーの初期の作品にもブルックナーから影響したと思われる同じような模倣があり、オーケストレーションにハープを頻繁に使うのはブルックナーよりもマーラーの頻度が高い。また強弱の使い方やフレージングはマーラーの作風に近い。半音階や弦の語法は「嘆きの歌」や「交響曲第1番」の世界に最も近い。
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