作品完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 17:10 UTC 版)
ジェリコーは、義理の伯母に当たる女性とのつらい情事を断ち切られ、頭を剃られて、1818年11月から1819年7月までパリ8区のフォーブル・ド・ルール地区にあるアトリエで、規律正しい修道院のような生活を送っていた。食事は管理人が運び、夕方に時折外へ出るだけであった。18歳のアシスタント、ルイ=アレクシス・ジャマールとジェリコーは、アトリエに隣接した小さな部屋に宿泊した。時折2人は口論し、ある時ジャマールが出ていった。2日後、ジェリコーは戻ってくるようジャマールを説得した。彼のアトリエは整然としており、几帳面に装ったジェリコーは沈黙の内に制作に取り組み、ネズミの立てる音にさえ集中力を中断される程だった。 ジェリコーは友人をモデルにした。特に画家のウジェーヌ・ドラクロワ(1798 – 1863年)は、前景で顔をうつぶせにし、片手をいっぱいに伸ばした人物のモデルになった。マストの下にシルエットで、2人の生存者が描かれている。3人の人物像は、本物、つまりコレアール、サヴィニー、ラヴィレットをモデルに描かれた。ジャマールは裸でポーズをとり、前景で海に飲み込まれそうになっている青年の死体のモデルになった。彼は他にも2人の人物像のモデルを務めた。 ヒューバート・ウェリントンによれば、ドラクロワは次のように書き残している。「ジェリコーは『メデューズ号の筏』制作現場も見せてくれた。私は強い印象を受けて、アトリエを出ると狂人のように走りだし、自分の部屋にたどり着くまで止まることができなかった」。 ドラクロワはジェリコーの死後、フランスロマン主義の旗手となる。 ジェリコーは制作の際、小さな絵筆とビスコース油とを使用していたので、やり直しにも手間がかからず、翌朝までには乾いた。彼のパレットは、バーミリオン、白、ネープルスイエロー、イエローオーク2種、レッドオーク2種、ローシエナ、ライトレッド、バーントシエナ、クリムゾンレイク、プルシアンブルー、ピーチブラック、アイボリーブラック、カッセルアース、ビチューメンで彩られ、色は別々に保管されていた。ビチューメンは、一度塗りではベルベットのような光沢を出すが、時間と共に、黒い糖蜜色に変色し、縮んで表面に皺が寄り、元に戻らない。その結果、今日では、作品のかなりの範囲で詳細が判別できなくなっている。 ジェリコーはカンバスに、構成の概略をスケッチした。それからモデルに1つずつポーズをとらせて、1つの人物像を完成させてから、次の人物像に取りかかった。このやり方は、群像を描く場合の通常の方法とは対照的である。個々の要素に集中して取り組むこの方法により、作品には「衝撃的な肉感」と同時に、一部の批評家には副作用だとされる、芝居がかった不自然さとの両方が現れた。作品の完成から30年以上経っても、友人モンフォールは当時が忘れられなかったという。 ジェリコーの極度の勤勉さにも驚いたが、そのやり方にも驚かされた。彼は白いカンバスに直接描き、ラフスケッチも、どんな種類の準備もせず、しっかりとした輪郭線のみを描いた。にもかかわらず、作品に破綻はまったくなかった。ブラシでカンバスに触れる前に、彼がモデルに払った鋭い観察力にも心打たれた。彼はゆったりと進めていくように見えて、その実、非常な早さで取り組み、次々に書き進めていった。戻ってやり直すことはめったになかった。彼の体や腕は、ごく僅かしか動かず、その表情はとても穏やかだった…。 ほとんど気を散らせることもなく、ジェリコーは作品を8カ月で完成させた。計画段階から数えても、18ヶ月かかっただけだった。
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