交響楽団の出発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 15:18 UTC 版)
1937年2月5日にこの新オーケストラ「NBC交響楽団」(the National Broadcasting Company's Symphony Orchestra)の創設がサーノフ、トスカニーニの連名で正式発表された。正式契約ではトスカニーニは演奏曲目、ソロイスト、合唱団、客演指揮者の選択、オーケストラ楽団員の人事権などに関して最終的な権限を持つこととされており、NBC交響楽団はまさに「トスカニーニのオーケストラ」としてスタートすることになった。彼はまたその際、オーケストラ団員の選抜ならびに訓練のために、当時クリーヴランド管弦楽団の音楽監督を務めていたアルトゥール・ロジンスキとの契約を要求し、容れられている。トスカニーニはザルツブルク音楽祭での客演時にロジンスキを深く知り、その手腕に信頼を置くようになったと考えられている。 ロジンスキの監督下、団員のオーディションは急ピッチで進んだ。参加申込みは全米のみならず、欧州各国からも積極的だった。大恐慌の影響で他のオーケストラの給与水準が必ずしも満足行くものでなかったこと、緊迫化するヨーロッパの政治情勢からの逃避の動き、といった外的条件がNBC響の編成を後押ししていた。最終的には92人の楽団員が雇用された。うち31人はNBC局内の既存オーケストラから、61人は外部からで、特に管楽器では米国内の他有名オーケストラからの引き抜きが多かったようである。 1937年11月2日には早くもオーケストラの初コンサートが「ドレス・リハーサル」と銘打って放送されている。この時トスカニーニはまだ米国に戻っておらず、指揮はロジンスキであった。曲目はウェーバー『オベロン』序曲、そしてリヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』である。 もっとも、ロジンスキによるこの訓練期間は問題も多かった。彼は楽団員との不必要とも思える衝突を繰り返したのである。ロジンスキはこの時45歳、もともと不安定で怒りっぽい性格であり、また大指揮者トスカニーニが戻ってくるまでの短い期間にオーケストラを全米屈指の水準にまで仕上げなければならない、という義務観が彼をさらに不安にしたと考えられている。結局親会社NBCは、トスカニーニのデビュー日までをすべてロジンスキの指揮で演奏、放送するという当初計画を変更、急遽ピエール・モントゥーにいくつかのコンサートを任せている。ちなみに、ロジンスキはスラヴ系オーストリア人、モントゥーはトスカニーニと世代の近いフランス人であり、同団は多様な三人のもとで初期の形を整えることができた。
※この「交響楽団の出発」の解説は、「NBC交響楽団」の解説の一部です。
「交響楽団の出発」を含む「NBC交響楽団」の記事については、「NBC交響楽団」の概要を参照ください。
- 交響楽団の出発のページへのリンク