WGP 1974年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:56 UTC 版)
「片山敬済」の記事における「WGP 1974年シーズン」の解説
1974年、片山は契約していたヤマハから強引に許可を得てWGPに参戦した。これに対してヤマハは全面的な支援はせず、TZ250を貸与するのみで、メカニックもおらず、片山自身がマシンの整備・チューニングを行った。初めてのヨーロッパを一人で転戦するのは大変だったが、ヨーロッパのヤマハ現地法人であるヤマハNVの契約ライダーのケント・アンダーソン(125ccクラス世界チャンピオン)が面倒見の良い人だったので、片山は彼の助けを借りてヨーロッパを転戦した。片山はWGP第6戦のダッチTT(オランダGP)から250ccクラスで参戦。予選で3位になり、決勝レースでも3位を走っていたのだが、リアブレーキのトルクロッドが折れるというトラブルに見舞われてリタイアとなる。参戦開始から3レース目の第8戦スウェーデンGP(アンダーストープ)で早くも独走でGP初優勝を飾る。スペインGPでは不運に見舞われた。トップで走り、このまま行けばランキング2位は確実と思われた状況だったのだが、ブラインドコーナーの立ち上がり地点で、クラッシュしたマシンの消火活動のためにコースを横切っていた消防士と片山が激突してしまったのだ。片山は転倒し、そのままリタイア。消防士は即死という不幸な結果となった。この年はシーズン後半の6戦しか出場しなかったにもかかわらず、ランキング4位を獲得。決勝レースの半分以上は、いったんはトップを走るという活躍を見せた。また、当時、片山はトレードマークとして、テントウムシのイラストをリアカウルに描いてレースに出場していた。 参戦当初は好んで座禅をしたり、日の丸の鉢巻を装着してレースに挑むなど、その奇行と突然変異的な速さから「オリエンタルミステリー」と揶揄されることもあった。片山は集中力を得る方法として座禅を行っていた。 当時のWGPでは、現在のWGPから見ると、各ライダーはかなり強引な走り方をしていた。コーナーでイン側に入ると、アウト側のライダーをどんどん外側に押し出すようなことが当たり前のように行われていた。アウト側のライダーはそのままではコースアウトしてしまうので、仕方なくスロットルを戻し、イン側のライダーの後方に下がることになる。金谷秀夫もヤーノ・サーリネンとカウリングをぶつけ合いながら走り、そこにフィル・リードも加わり、三つ巴の戦いになるという状況がごく普通であった。相手がスロットルを戻すまで完全に抑えるという意気込みで各GPライダーは走っていた。根本健や河崎裕之もそのような走り方をしていた。片山は富士スピードウェイで飛ばされたことがある。 1974年はケニー・ロバーツもWGPに初参戦したシーズンである。片山と同じ250ccクラスに出場した。このシーズンはイタリアのアエルマッキのエンジンを搭載したハーレーダビッドソンのワークス・マシンが速く、ウォルター・ビラが世界チャンピオンとなった。のちのWGP500ccクラスチャンピオンのフランコ・ウンチーニもアエルマッキのハーレーダビッドソンに乗っていた時期もあった。 次の表は片山の1974年250ccクラスの成績である(インターナショナルレースも含む)。 Rd. グランプリサーキット結果6 ダッチTT TTサーキット・アッセン リタイア 7 ベルギー スパ・フランコルシャン 3位 インターナショナルレース 優勝 8 スウェーデン アンダーストープ 優勝 インターナショナルレース 優勝 9 フィンランド イマトラ 5位 10 チェコスロバキア ブルノ 2位 11 ユーゴスラビアグランプリ オパティア リタイア 12 スペイン モンジュイック リタイア
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