U-2撃墜事件
U-2撃墜事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 22:01 UTC 版)
「U-2 (航空機)」の記事における「U-2撃墜事件」の解説
詳細は「U-2撃墜事件」を参照 1956年6月からソ連領空を飛んで偵察を行うようになったU-2は、ソ連防空軍のMiG-19Pなどの迎撃戦闘機による迎撃をたびたび受けていたが、1950年代末にSu-9迎撃戦闘機が配備されるまでは、ソ連にはU-2に有効な攻撃を与え得る高度に達することのできる戦闘機は存在しなかった。その一方、ソ連ではU-2を撃墜するために新型の地対空ミサイルも開発していた。 1960年5月1日にはソ連領空内にCIA所属のU-2偵察機が領空侵犯をし偵察飛行をしていたところ、S-75地対空ミサイルによる迎撃を受け、U-2はついに撃墜された。撃墜されたU-2は、前年「黒いジェット機事件」を起こした機と同一であることが後に判明している。 パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズは脱出し無事であったがソ連に捕虜として捕らえられ公開裁判にかけられた。パワーズはスパイ飛行を認め有罪となるが、その後アメリカで逮捕されたKGBのルドルフ・アベル大佐との身柄交換により釈放された。 撃墜されたU-2は半径数100kmの範囲に散乱しており、それらの破片は数千人のソビエト軍によって拾い集められ、技術情報が収集された。フルシチョフはベリエフに対しU-2のコピー機を開発するように命令し、1961年には試作機S-13が完成した。しかし重量が重く高高度を飛ぶことができず1962年5月に開発が中止された。
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