PQ17船団の出発からドイツ軍の攻撃開始まで
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1942年6月27日、33隻の商船と給油艦2隻、救難船3隻、特設防空艦2隻からなるPQ17船団が、ソ連のアルハンゲリスクを目指しアイスランドのハヴァル・フィヨルドを出発した。積み荷は297機の航空機、594両の戦車、4246両のトラックや装甲車、および約16万トンの貨物であった(給油艦のうち1隻は途中でQP13 船団に派遣された)。船団は旗艦ケッペル以下5隻の駆逐艦、2隻の潜水艦、各4隻のコルベットと武装トロール船、3隻の掃海艇からなる第1護衛隊(指揮官ケッペル艦長ジャック・ブルーム中佐)に護衛されていた。駆逐艦および一部の護衛艦艇は脅威が増大する30日に船団に合同した。また、船団からやや離れた位置に、巡洋艦4隻、駆逐艦3隻からなる第1巡洋艦戦隊(指揮官L・H・K・ハミルトン少将、アメリカ海軍との合同部隊)が間接護衛隊として布陣していた。さらにこれに加え、ティルピッツを含むドイツ水上部隊が出撃してきた場合に備え、戦艦2隻、航空母艦1隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦14隻からなるイギリス本国艦隊の警戒部隊(指揮官ジョン・トーヴェイ大将、同じくアメリカ海軍との合同部隊)が船団の後方にあった。 出発直後1隻が機関のトラブルで、また6月30日には同じく1隻が流氷により船首に損傷を受けてアイスランドに引き返したため、結局ソ連へ向かった商船は33隻となっていた(36隻が出発し3隻が引き返したという資料もある)。船団出港の情報を得ていたドイツ軍も、船団が通常より北寄りの航路をとったこと(夏期のため流氷の南下が少なかった)、悪天候が続いたことにより、この時点では接触には成功していない。 船団が出発してから4日目の7月1日、アイスランド北東のヤンマイエン島付近でドイツ海軍の潜水艦 U456(艦長、マックス-マルティン・タイヒャールト大尉) が船団を発見。その数時間後にはドイツ空軍の偵察飛行艇 BV138 が船団の上空に飛来し、触接を開始した。ドイツ軍による攻撃が始まったのは、翌日・2日の夕刻からで、少数の He111 雷撃機によるこの空襲では、ドイツ側が1機を失い、船団に被害はなかった。なおこの時既に桂馬跳び作戦は発令されており、ティルピッツと重巡洋艦アドミラル・ヒッパーを主力とするドイツ海軍水上部隊の第1部隊(指揮官オットー・シュニーヴィント大将)は、アルタ・フィヨルド内で出撃準備を完成させていた(ただし駆逐艦3隻が座礁し出撃不能となった)。7月3日は船団に被害がなかったが、ドイツ海軍は同日、第1部隊に次いで重巡洋艦アドミラル・シェーア、リュッツオウを主力とする水上部隊第2部隊(指揮官オスカー・クメッツ中将)の出撃準備を完成させ(ただしリュッツオウは座礁し出撃不能となった)。4日早朝からはドイツ軍の攻撃が激化し、この日1日で航空機と潜水艦により商船3隻が撃沈され、1隻が大破した。
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