ミラー (Miller, Oskar von)
ミラーという人は
バイエルンのウィッテルスバッハ王朝に仕える鋳物師かつ彫刻家の息子として生まれ、ミュンヘン理工科大学で土木工学を学ぶ。 1881年のパリ国際電気博覧会でエジソンの展示を見て衝撃を受け、電気技術者へ転身する。1882年、27歳でミュンヘン国際電気博覧会において指導的な役割をこなし、ここでラーテナウと出会い彼の企業にマネージャーとして加わる。 1890年自分の顧問技術会社、技術事務所オスカー・フォン・ミラーを立ち上げる。
ミラーの主な経歴
1882年、ミュンヘン国際電気博覧会の目玉として、バイエルン・アルプスのふもとからミュンヘンまでの間57kmを送電し、会場に電力を届けた。 1500~2000Vの直流送電が採用され、このときの発電機動力は水力ではなく、1.5馬力の蒸気機関であった。
1891年、フランクフルト国際電気博覧会の目玉として、ネッカー川の岸に位置するラウフェンからフランクフルトまでの間175kmを25kVで送電し、会場に電力を届けた。このときは三相交流の高電圧送電が採用された。ドブロウォルスキーによる三相機が使用され、この博覧会によって、遠く離れた水力所在地を利用して人口密度の高い工業地域に電気の供給ができることを世界に示した。 また、高電圧送電のために初めて変圧器の絶縁に油が使われた。油入変圧器は40kVの高圧にも耐え、油が実用的な絶縁体であることもこのとき示された。
1910年、長年の悲願であったバイエルン・アルプスの水力発電開発に着手する。 落差200mを確保できるワルヘン湖からバイエルンへ電力を供給するもので、一万馬力のタービン6基、多相発電機、総延長1270km、送電電圧100kV(一部は200kV)の環状送電網という壮大な計画であり、独立して存在していた小規模電力系統の既得権益や、政治的問題が立ちふさがった。 障害の多くは技術的な問題ではなく政治、立法の問題であったが、1909年にミラー自身がドイツ上院議員になることで道が開ける。
1919年、内務大臣のエルハルト・アウアーにワルヘン湖発電所のための州コミッショナーに任命され、この肩書きはミラーにとって大きな後押しとなった。
1924年、さまざまな障害を乗り越え、ワルヘン湖‐バイエルン送電網は運転を開始する。 地域電力事業体は独自の電圧、独自の周波数からなる独自の拡大プランを持っていた。 ミラーは既得権益、将来性、効率といった問題に対し、政治的判断や手腕もってこれらを規格化し、バイエルン全体の送電網を完成させていった。
1930年、”国の電気供給に関する所見”という報告書を発表する。 200~380kVでドイツ全国から電力を集めて各地に配分する高電圧の送電リング、”リングライトゥング”である。 ミラー自らが合理的だが非政治的と考えたこのシステムは、中流階級の利権争い、発電所の国有制、州有制、郡有制などの問題で結局のところ実を結ぶことはなかった。
オスカー・フォン・ミラー
ドイツの電化にこの人あり。複雑な変化を続ける障害の数々を乗り越えるため、技術者の枠を超え積極的に政治に関わり、政治的決定に参加していった。 なおかつ自分のプロジェクトの金融、組織、運営を考慮し舵をとる。イギリスのチャールズ・マーズの活躍によく似ている。
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