JWP女子プロレス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:33 UTC 版)
「キューティー鈴木」の記事における「JWP女子プロレス時代」の解説
1992年4月3日、JWP女子プロレスが所属選手が8人のみで旗上げ。選手数の少なさを1日で2試合もこなすなどしてカバーする。後楽園ホールでの旗揚げ戦では、宿敵の尾崎魔弓と新人時代以来4年9ヶ月ぶりにタッグを組み、関西、福岡晶組から勝利を奪う。新団体では本人の中で、はっきりと自覚が芽生え、「それまでは自分の仕事だけをすればいいという考えでしたが、この団体は私が引っ張っていかなければという意識を持つようになりました」と語っている。4月11日、後楽園ホールで空手家の桑原三佳(誠心会館)と生涯唯一の異種格闘技戦で腕挫十字固で余裕の勝利。この頃には横浜のスーパータイガージムを訪れて、佐山聡の指導も受けている。 1993年には女子プロレス界に対抗戦ブームがおこり、キューティーは最初のうちはあまり興味を示さなかったが、井上貴子との試合にライバル心を燃やす。この二人の対決はアイドル対決と言われた。全女との試合では「同じプロレスなのに組み方や間のとり方が全然違う。」という違和感をむしろ楽しんだという。11月、元クラッシュギャルズの長与千種の復帰戦でタッグパートナーを務め、翌1994年3月13日には、シングルで初対戦するが、48秒で敗北。4月10日、後楽園ホールにてコマーシャルで人気者になったレジー・ベネットとタッグを結成、以後たびたび二人はタッグを組むことになる。 1994年11月20日の東京ドームで行われた『憧夢超女大戦』では井上貴子と越境タッグを組み工藤めぐみ、福岡晶組と対戦、26、27日には尾崎と共にアメリカ、バージニア州でのWCWの試合に遠征、ブル中野、北斗晶組と2連戦をする。北斗とは初対戦であった。 1995年5月14〜16日、JWPの中国遠征で北京市と天津市で、6月3〜5日の韓国遠征で釜山市、光州市で試合をする。 この時期、「私の新人指導は厳しいですよ。優しいだけでは結局、彼女たちのためにならないから徹底的にしごいてやります。」と厳しい指導者的な役割も受け持つようになる。この頃からしきりにインタビューで「デビル雅美、関西にシングルで勝ちたい。」と二人を意識した発言をするようになる。 1995年6月16日両国国技館での対ボリショイ・キッド戦で、生涯で一度のマスク着用で試合を行う。純白のタイガーマスクに似たデザインであった。12月24日には、後楽園ホールでのデビュー10周年記念試合を行う。 JWPは当時、大塚製薬がスポンサーだったので、リング上でオロナミンCドリンクやジャワティーを一気飲みして宣伝に努めた。 次第に引退を考え始めるが、1997年8月、盟友、プラム麻里子がリング上のアクシデントで亡くなるという事故が起き、もう少し会社のために頑張らなくてはいけないと思いとどまる。事故後、「彼女がやり残した分までプロレスをやっていきます。いつもどこかにいると思うからプラムに怒られないように頑張っていきたい。」とのコメントを残した。 1998年10月15日、引退を正式表明、12月27日、20代の元気なうちに引退したかったという本人の希望どおり、29歳で後楽園ホールにて現役生活を終える。引退試合は関西とのシングルマッチの予定だったが関西がけがで欠場、8人タッグで勝利を飾り、リング内で仲間たちに胴上げされ選手生活にピリオドを打つ。引退の理由としては、ケガや体力の衰えなど明確なものではなく、「やるべきことは全てやったし、もう後輩に教えることもない。」という漠然としたものであった。終生のライバルであった尾崎との戦績は、10勝1分け25敗。引退後も芸能の仕事は継続する。
※この「JWP女子プロレス時代」の解説は、「キューティー鈴木」の解説の一部です。
「JWP女子プロレス時代」を含む「キューティー鈴木」の記事については、「キューティー鈴木」の概要を参照ください。
- JWP女子プロレス時代のページへのリンク