26連勝で各段優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:53 UTC 版)
13代玉ノ井親方(関脇・栃東)の次男として、東京都墨田区に生まれる。小学生時代は野球や水泳に熱中し、原辰徳(巨人)から贈られたサイン入りのグローブが当時の宝物であった。小学校6年生の時に相撲に転向し、明大中野中学校に進学して相撲部に入部した。しかし当初は体が硬く、脚を広げて上半身を床につける股割りもできず、中学までは全国レベルの力はなかった。 父には高校横綱になることを角界入りの条件にされ、明大中野高校3年生の時に見事高校横綱に輝き、高校在学中の1994年(平成6年)11月場所に父が師匠の玉ノ井部屋に入門して本名の志賀の四股名で初土俵を踏んだ。序ノ口場所前の稽古で左膝を痛め1995年(平成7年)1月場所は前半を休場したが、8日目の4番相撲から出場して残り4番を全勝してこの場所を4勝0敗3休とした。まわしを取って投げる相撲が得意だったが「今の相撲ではまたけがをする。まわしを取らないでおっつける相撲にしないとだめだ」と反省。師匠からも「廻しにこだわるな」と言われた。投げで振り回す相撲から、脇を固めて押す相撲に変えた。けがを教訓に、母校の先輩、3代目若乃花を見習った。そこから快進撃が始まり、同年3月場所は序ノ口7戦全勝優勝、同年5月場所は序二段7戦全勝優勝、同年7月場所は三段目7戦全勝優勝、幕下に昇進した同年9月場所の1番相撲の白星まで26連勝を飾った。 この場所は3勝4敗に終わり入門以来初めて負け越したが、同年11月場所は7戦全勝で優勝、1996年(平成8年)1月場所では幕下3枚目で5勝2敗、同年3月場所では幕下2枚目で5勝2敗と好成績をおさめ、同年5月場所には初土俵からわずか所要8場所で十両に昇進するとともに、父の四股名でもあった栃東に改名した。十両でも同年5月場所、7月場所は10勝5敗と連続で二桁勝利を挙げ、同年9月場所は初日から10連勝と波にのり12勝3敗で十両優勝を果たし、同年11月場所には早くも新入幕を果たした。序ノ口から十両まで全段で優勝をしたのは、史上3人目であった。 入幕後は早くから「大関候補」として期待を集め、新入幕の11月場所では初日から5連勝をするなど10勝5敗(単独次点)の好成績をおさめて敢闘賞を受賞した。翌1997年(平成9年)5月場所で11勝4敗の好成績を挙げて敢闘賞を受賞、7月場所にはわずか入幕5場所で新三役(小結)に昇進。2大関に勝ち9勝6敗と勝ち越して技能賞を獲得、同年9月場所は新関脇で曙に勝ち10勝5敗と二桁勝利を上げて2場所連続で技能賞(3場所連続三賞受賞)を受賞した。 いなしてから左右からのおっつけ、前廻しを引いてからの出し投げなど、その取り口はベテラン力士から若手らしく正面からぶつかってこないのでやり辛いと言われるほど技が多彩であった。
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