20世紀-現在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 07:06 UTC 版)
「ファイエットビル (ノースカロライナ州)」の記事における「20世紀-現在」の解説
カンバーランド郡は第二次世界大戦後に人口が急増し、1960年代は増加率が43%となって、ノースカロライナ州の100郡の中でも最大の数字になった。商業開発や郊外小区画の開発がファイエットビル市域の外、フォートブラッグ基地やポープ空軍基地の方にまで拡がり、家屋などの建設が急ピッチで進んだ。ファイエットビルとカンバーランド郡の教育学区は1960年代初期から次第に統合の方向に進み、1970年代にはバス通学によって大規模な学区統合が進んだ。 ファイエットビル州立師範学校(現在のファイエットビル州立大学)の学生が先頭にたった公民権運動の行進やシットインによって、レストランでの白人へのみのサービスや劇場での差別シートの慣習が終わらせられた。政治が変化し、1960年代から1980年代初期に掛けて黒人や女性がかなりの数で公職を得るようになった。 ベトナム戦争の時代はファイエットビル地域でも変化の時代だった。フォートブラッグから多くの部隊を送り出した訳ではなかったが、1966年から1970年に掛けて、20万人以上の兵士が出征する前の訓練を受けた。このような大人数が入れ替わり立ち替わり動いたことの効果は劇的であり、この時代の名残が今のファイエットビルでも見ることができる。ファイエットビルでの反戦運動は、概して戦争を支持していた市の近くにフォートブラッグがあったために全国的な注目を浴びた。ジェーン・フォンダは市内であった反戦行事に出席するため、3度ファイエットビルを訪れた。1960年代と1970年代のこのような変化のために、ファイエットビル市は「ファイエットナム」というような渾名がついて、今日でも使われている。またこの時代の1970年には、陸軍軍医ジェフリー・R・マクドナルドがフォートブラッグにあった自宅で妊娠中の妻と2人の娘を殺すという事件があり、全国紙の見出しを飾った。 ファイエットビル市はその中心街の様々な再開発プロジェクトでそのイメージを変える試みを行ったが、諸々の結果を生んだ。空挺部隊特殊任務博物館、ファイエットビル地域交通博物館、ファイエットビル・リニアパークおよびファイエットビルお祭り公園のような新設物件が2006年後半にオープンし、中心街を変えることに幾らかの貢献を果たした。ファイエットビル市は今でも犯罪率が大変高い状況にある。 ファイエットビルとそれを取り囲む田園部は過去10年間に急速な発展を経験した。この成長はホープミルズ、レイフォードおよびスプリングレイクのような郊外地にまで達した。 カンバーランド郡の西部は近年ファイエットビル市に併合された。 2008年、「ベストライフ・マガジン」がアメリカ合衆国国勢調査局、教育統計全国センター、FBI、アメリカ博物館協会、健康統計全国センターおよびアメリカ法律家協会のデータを使って、アメリカで子育てに適した都市ランキングの悪い方から3番目にファイエットビルを上げた。 「ホエア・トゥ・リタイア」誌はファイエットビルを退職後に住むのに適した都市の一つに挙げた。 2005年、連邦議会は基地再編閉鎖計画に従い、フォートブラッグは新しく幾つかの司令部を受け容れるものとした。アメリカ陸軍はアトランタの国軍司令部と予備役司令部を閉鎖し、これをフォートブラッグに移すことになった。この司令部の移転とこれを支える事業の移転により3万人以上が地域内に入ってくることが予測されている。国軍司令部は毎年3,000億ドルの発注を行っている。
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