1997年 - 2004年
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「エアロスミス」の記事における「1997年 - 2004年」の解説
1997年3月、レコードレーベルがデビュー当時に所属していたコロムビア・レコードに変わり、プロデューサーにケヴィン・シャーリーを迎えた12thアルバム『ナイン・ライヴズ』を発表。前作に続き全米チャート1位(Billboard 200)を獲得した。なお、当初のディスクジャケットはヒンドゥー教徒からの反感を買いかねないということで、デザインが変更されている。翌1998年の日本ツアーでは、“海外アーティスト初”となる4大ドームツアーを開催した(名古屋・大阪・福岡・東京〈2回〉のドーム球場に加え、さらに追加公演として横浜アリーナ公演も2回行った)。また、同年に公開されたスティーブンの長女で女優のリブ・タイラーがヒロインを務めたハリウッド大作『アルマゲドン』のテーマ曲に使用された「ミス・ア・シング」が、バンド史上初となる全米シングルチャート1位(Billboard Hot 100)を獲得し、4週連続1位の大ヒットとなった。同タイトルは、MTV Video Music Awardsに於いて「ベスト・ビデオ・フロム・ア・フィルム」を受賞した。同年10月にはライブ・アルバム『ア・リトル・サウス・オブ・サニティ』を発表した。 1999年、第41回グラミー賞で「ピンク」が「ベスト・ロック・パフォーマンス」を受賞。7月にはアメリカフロリダ州のウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート内の「ディズニー・ハリウッド・スタジオ」にエアロスミスをフィーチャーしたアトラクション「ロックンローラー・コースター」がオープンする。年末には再び来日し、バックチェリー、MR. BIGを前座に迎えた大阪ドームでのミレニアム・カウントダウンライブを含む、2年連続となる4大ドームツアーを開催した。 2001年1月、アメリカン・ミュージック・アワードから「アワード・オブ・アチーブメント」(功労賞)を受賞し、授賞式で新曲「ジェイディッド」を披露。『第35回スーパーボウル』のハーフタイムショーにも出演した。3月には13thアルバム『ジャスト・プッシュ・プレイ』を発表。全米チャート2位(Billboard 200)を記録した。また同年、バンドは「ロックの殿堂」入りを果たした。10月、テクモがゲームソフト『DEAD OR ALIVE 3』においてエアロスミスとの楽曲仕様契約を締結したことを発表。エアロスミスは「ナイン・ライヴス」、「ホーム・トゥナイト」、「アメイジング」を提供した。 2002年1月、日本ツアー開催(3度目となる4大ドームツアー)。5月に公開された映画『スパイダーマン』サウンドトラックで「スパイダーマンのテーマ」をカバーした。6月に再び来日し、『2002 FIFAワールドカップ』のオフィシャルコンサートに出演。アンコールで、前座で出演したB'zと共演し「トレイン・ケプト・ア・ローリン」を披露した。7月にはレーベルの垣根を越えたベスト・アルバム『アルティメイト・エアロスミス・ヒッツ』を発表。 2003年、全米でキッスとのジョイントツアーを開催した。 2004年3月、彼らのルーツとなるブルース作品のカバーアルバム『ホンキン・オン・ボーボゥ』を発表。共同プロデューサーとしてジャック・ダグラスが『ドロー・ザ・ライン』以来となるアルバム制作に関与した。7月には日本ツアーを開催(広島公演はスティーヴンの怪我により中止された)。ロック・フェスティバル『POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004』にヘッドライナーとしても出演した。ツアー終了後は長期休暇をとる予定であることが伝えられた。
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1997年 - 2004年
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「山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場」の記事における「1997年 - 2004年」の解説
ジャパンフットボールリーグに所属していたヴァンフォーレ甲府が1999年よりJリーグ ディビジョン2(J2)に参入するに際して開催基準を満たすため、改修工事(第一次改修)を実施した。内容は以下の通り。 山梨県による収容人数はかいじ国体時の2万人としていたが、Jリーグでは芝生席を原則収容人数と認めず、J2の開催基準である10,000人に達しないことから、バックスタンドの芝生席を一度解体し、新たにコンクリート造のスタンドを設置し、Jリーグ規定で13,000人収容とする。 南側サイドスタンドに電光掲示板を新設。 放送設備を改修。 これによりヴァンフォーレ甲府はスタジアム要件をクリアし、Jリーグの開催が可能となった。 2004年にフィールドの改修が行われ、土壌入れ替えや排水設備の改良、芝生をティフトン類の夏芝に張り替えた。また、オーバーシードを行うことにより1年中緑色を保てるようになった。
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