1996年–1999年:選手生活晩年とは? わかりやすく解説

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1996年–1999年:選手生活晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 01:57 UTC 版)

シュテフィ・グラフ」の記事における「1996年–1999年:選手生活晩年」の解説

グラフ25歳過ぎた頃から身体の故障蓄積目立ち始め1995年・1996年全豪オープン欠場するなど、出場試合数制限していた。1996年4月28日日本の東京・有明コロシアム行われた「ワールドグループ」1回戦では伊達公子6-7, 6-3, 10-12敗れている。この試合ではグラフが第1セット5-0リードしていたが、ここから伊達大逆転先取し、第2セットグラフ奪い返したが、第3セット22ゲーム目までもつれ、伊達7度目の対戦グラフから初勝利を奪った。2勝2敗で迎えた最後ダブルス戦で、グラフアンケ・フーバーペア杉山愛長塚京子組に 6-4, 3-6, 3-6逆転負け喫しドイツ日本敗退したフェド杯対戦表)。 グラフ伊達に敗れたのは1996年フェド杯1回戦1度だけであるが、同年7月ウィンブルドン準決勝では伊達2日がかりの試合戦ったグラフ6-2, 2-0リードした後、第2セット第3ゲームから伊達が6ゲーム連取する。この試合の第2セット・第7ゲーム(グ2-4伊)の場面でグラフファン思われる者から(冗談で?)プロポーズされハプニング起きた。彼女の答えは“How much money do you have?”で、実父脱税事件金銭的問題抱えていたことからくるブラックジョークであった。続く第8ゲーム伊達奪って 6-2 とし、セットカウント 1-1 となったところで日没順延になる。翌日再開され最終第3セットグラフ取り4日-5日にかけて行われた試合6-2, 2-6, 6-3グラフ勝利になった1997年2月1日東京体育館の「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」の準決勝ブレンダ・シュルツ=マッカーシーオランダ)と対戦中に左膝の故障悪化し2月2日マルチナ・ヒンギスとの決勝棄権する治療のため休養入り同年3月31日当時16歳ヒンギス世界ランキング1位の座を明け渡した。(これでグラフ世界ランキング1位生涯保持記録は「377週」で終わった。)5月にいったん復帰するが、全仏オープン準々決勝アマンダ・クッツァー敗退する。全仏終了後6月10日に左膝の手術を受け、復帰までに8ヶ月長期間要したその間若手新勢力次々と台頭しグラフ自身体調もなかなか回復しなかった。1年ぶりの4大大会復帰となった1998年ウィンブルドンでは、過去の実績考慮した特別措置による「第4シード」を与えられたが、3回戦ナターシャ・ズベレワ敗退した。ようやく全米オープン直前の「パイロット・ペン選手権決勝ヤナ・ノボトナ破り復帰後の初優勝を果たす。11月上旬の2週連続優勝により、グラフ女子テニスツアー年間最終戦の「チェイス選手権」にも2年ぶりに出場資格獲得しリンゼイ・ダベンポートとの準決勝まで勝ち進んだ。このカムバックにより、グラフ世界ランキングを9位まで戻した現役最後の年となった1999年全豪オープンでは準々決勝モニカ・セレシュ敗退する。3月上旬の「エバート・カップ」では、当時17歳セリーナ・ウィリアムズ決勝戦行い全仏オープンで「第6シード」を得た。この大会で1996年全米オープン以来4大大会決勝進出したグラフは、1999年6月5日決勝戦マルチナ・ヒンギスとの“新旧女王対決”に勝ち、全仏3年ぶり6度目優勝を飾る。これが自身最後4大大会優勝22勝目となった。続くウィンブルドンでは、3年ぶりの決勝リンゼイ・ダベンポート4-6, 5-7敗退し8度目の優勝逃す。この大会でジョン・マッケンロー組んで混合ダブルスにもエントリーしたが、準決勝直前試合棄権したその後左膝の故障再発[要出典]し、8月13日世界ランキング3位現役引退したグラフ4大大会優勝は「22勝」(全豪オープン4勝+全仏オープン6勝+ウィンブルドン7勝+全米オープン5勝=22勝)にのぼり、マーガレット・コート夫人の「24勝」、セリーナ・ウィリアムズの「23勝」に続く女子歴代3位記録である。グラフ1988年・1993年1995年・1996年と「4度」にわたり赤土全仏オープン芝生ウィンブルドン連続制覇成し遂げたが、これは男子ビョルン・ボルグ1978年-1980年成し遂げた3度」を上回る過去最高記録である。4大大会女子シングルス決勝31進出したが、これはクリス・エバート34度(1816敗)、マルチナ・ナブラチロワ32度(1814敗)に続く女子歴代3位記録である。決勝戦勝率22勝9敗=71%)は、1968年以後の「オープン化時代」の女子テニス界では最高勝率となった。なお、彼女が1987年8月-1991年3月記録した世界ランキング1位連続保持記録186週」は、2007年8月27日男子ロジャー・フェデラー187週に到達したことにより、女子歴代1位記録となった。(フェデラー2004年2月2日-2008年8月17日まで「237週」世界ランキング1位を連続保持しグラフ女子歴代1位記録51上回る世界最長記録樹立した。)

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