1994年の議会掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:30 UTC 版)
「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1994年の議会掌握」の解説
1992年の大統領選でジョージ・H・W・ブッシュ大統領は再選を目指したが、経済の低迷と進まない財政再建から、民主党のビル・クリントンに阻まれた。 しかし共和党はニュート・ギングリッチ下院少数党院内幹事の主導により「アメリカとの契約(英語版)」キャンペーンを展開し、1994年の議会選挙で両院の過半数を獲得した。共和党が両院で過半数を占めるのは実に1952年以来のことであり、途中2001年から2002年までの上院の例外を除き、2006年まで続いた。1994年までの40年間、81年から87年まで共和党が上院で多数を占めたのを除き、民主党が上下院双方を支配してきたのであり、94年の議会選挙は大きな転換点として「1994年の共和党革命(英語版)」とも呼ばれる。 この選挙で共和党の候補者たちは、「アメリカとの契約(英語版)」と名付けられた綱領を掲げた。目玉政策は、国が税収を超える予算を組むことを禁止する「予算の均衡のための憲法修正条項」や社会保障制度改革等の大規模な行政改革であった。中間選挙で政党綱領を示すのはこれが初めてであった。また、すべての改革項目について議会に法案を提出すると約束した綱領も史上初めてだった。 1995年の議会では、早速、議会と民主党のビル・クリントン大統領が鋭く対立した。新たに多数党となった共和党の政府支出削減の公約は、大統領のメディケアや教育、環境、公衆衛生等に関する政策と相反するものであり、議論の膠着から予算成立が年度開始に間に合わず、ついにはアメリカ連邦政府の一時的な機能停止(政府閉鎖)につながった。政府閉鎖はアメリカ史上最長にわたり、クリントンがアメリカ議会予算局(英語版)が承認した均衡予算の提出に合意したことによりようやく終結した。民主党幹部たちは予算を巡る膠着状態を産んだ責任者として下院議長ギングリッチを激しく攻撃し、ギングリッチの大衆イメージはひどく傷ついた。このことも要因となって、クリントンは1996年の大統領選挙で再選された。共和党はボブ・ドールを候補に立てたが、上院で発揮した指導力を選挙運動に活かすことができずに敗北した。 その他、「アメリカとの契約」で約束されたいくつかの法案は成立したが、任期に上限を設ける法案などは廃案になった。クリントン大統領は、共和党の社会政策案の一部には拒否権を行使したが、公的扶助を縮小する個人責任・就労機会調整法(英語版)や均衡を目指した連邦予算などは最終的に受け入れた。結果として社会保障制度は大きく変わり、保守派はこれを歓迎する一方、リベラル派は落胆した。共和党は下院で多数を占めてはいたが、憲法修正に必要な総議員の3分の2を集めることはできず、議員に在職任期制限(英語版)を設けることはできなかった。 1998年の中間選挙で共和党は下院で5議席減らした。これは政権党でない党が喫した敗北としては64年ぶりの大きさだった。世論調査では、ギングリッチが弾劾訴追決議によってクリントンを罷免に追い込もうとしたことを支持しない人が多かったので、ギングリッチは選挙での敗北の責任を厳しく問われた。党員集会においてさらなる造反に遭遇し、1998年11月、下院議長の職を辞し、容易に再選を決めて11期目となるはずだった翌年の議会開会を前に、下院議員も辞職した。
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