1990年代後半 先軍政治
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「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」の記事における「1990年代後半 先軍政治」の解説
「苦難の行軍」、「深化組事件」、「主体暦」、「先軍政治」、および「太陽政策」も参照 1995年3月に日米韓が、核開発の中止に代わる北朝鮮のエネルギー調達を補うため朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立すると、核開発問題は1つの区切りをみせた。 1995-1996年には水害によって農業生産が打撃を受け、北朝鮮は食糧危機に陥った。正確な人数は不明だが、飢餓により22万人から350万人が死亡したといわれる。金日成主席の死去後、後継者となった金正日総書記は「苦難の行軍」というスローガンでこの危機を切り抜けようとした。大飢餓を招いたのは北朝鮮当局の責任とする批判があり、経済史学者の李栄薫は「金日成主席の死亡(1994年)から1997年までに金日成の墓のために使われた資金は9億ドル(約970億円)にのぼる。その金があれば、1995年から1998年にかけ300万人が死んだとされる大飢餓の人々を救えたはずだ」と述べている。また、韓国から北朝鮮に向けて風船で散布している北朝鮮向けビラには、「300万人が飢えて死んだ『苦難の行軍』の時、3年間も北朝鮮人民らを養うことのできる8億9千万ドルを投じて自分の父の金日成の死体を飾るのに費やしました。このお金で食糧を買い、飢える人民に食べさせたら、数百万人が餓死はしなかったはずです。これがまさに人民の父母、人民の指導者と騒ぎ立てる金正日の正体です」と書かれている。謎とされるのは、各国をはじめとする食糧援助がなされ、充分に食糧があった時からむしろ、膨大な数の餓死者が現れていることである。 1997年9月9日より、西暦1912年を元年とする主体暦が導入された。 1998年に北朝鮮はテポドン・ミサイルの発射実験を成功させ、再び国際社会との対決姿勢を強めるが、米国主導で日米韓と北朝鮮との交渉が進められ、1999年には、米国の経済制裁の一部解除と引き換えに、北朝鮮がミサイルの発射実験を行わないとの合意が成立した。1999年4月30日『朝鮮日報』によると、テポドン1号発射には最低3億ドルかかり、3億ドルで国際市場のトウモロコシを買えば約350万トンになり、それだけで北朝鮮全国民の1年分の食糧となる。1999年4月22日『労働新聞』は、金正日の「(1998年8月のテポドン1号発射について)敵は何億ドルもかかっただろうと言っているが、それは事実だ」「私は、わが人民がまともに食べることができず、他人のようによい生活ができないということを知りつつも、国と民族の尊厳と運命を守り抜いて明日の富強祖国を建設するため、資金をその部門に振り向けることを承諾した」という発言を報じている。安明進によると、1990年代後半に金正日は「反乱が起きたら全部殺せ。餓死者は死なせておけばいい。私には2千百万全部の朝鮮人民が必要なのではなく、百万の党員がいればいいんだ」と発言した。 韓国との関係も、1998年に金大中が大統領に就任して以後は、いわゆる太陽政策によって関係改善に向かった。
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