1987〜2003年 スポーツ期
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「浜口哲夫」の記事における「1987〜2003年 スポーツ期」の解説
1987年、スポーツ局へ異動。人気番組「プロ野球ニュース」改革の任を負い、同番組の編集長に就任。看板キャスターだった佐々木信也の交代、スポーツ専用スタジオの開設、局アナウンサーの活用、女性キャスターや女性記者の起用など多彩な施策で、多様化するスポーツ界・スポーツファンに即応する「プロ野球ニュース」第2世代への構造改革を推し進めた。やがて「もはやスポーツはプロ野球だけの時代ではない」という浜口の認識から、「プロ野球ニュース」は25年続いた看板を下ろし、2001年より「すぽると!」に移行する。 一方、浜口はテレビの「黄金ソフト」であったプロ野球の巨人戦中継・オールスターゲーム・日本シリーズの放送権を獲得・維持するために、各球団やプロ野球機構との渉外業務を担当した。1991年〜1992年には横浜大洋ホエールズの球団経営改革プロジェクトに参加。横浜ベイスターズ誕生以来、1998年のリーグ優勝・日本シリーズ優勝まで、中部慶次郎オーナーや大堀隆社長と親交を結んで球団改革に協力した。 1991年、当時「F1グランプリ」の全レース独占放送を続けていたフジテレビは、スポーツ局内に「モータースポーツ事務局」を新設、浜口が初代事務局長に就任する。1994年、「日本のモータースポーツの育成・確立」を目指す中嶋悟、鈴鹿サーキットランド、フジテレビの協力体制のもと、モータースポーツ振興を目的とした新プロジェクトが始まり、1995年に日本レースプロモーション(JRP)が発足。1996年から日本最高峰のフォーミュラカーレース「フォーミュラ・ニッポン」を運営するに至った。浜口はこの一連の動きをリードし、1999年から2001年まで日本レースプロモーションの代表取締役社長を務めた。 2001年6月、スポーツ局長に就任。2002年には日韓共同開催のワールドカップサッカーでフジテレビは日本VSロシアの中継放送権を獲得、視聴率は66.1%を記録した。 浜口がスポーツ局に在任した1990年代は、スポーツの多様化・国際化が進み、数多くのスポーツがテレビ放送のコンテンツとしての存在価値を高め、テレビ局のスポーツ局が活気に満ち溢れた時代であった。浜口は、プロ野球、モータースポーツ、格闘技、バレーボール、陸上競技、サッカー、アイススケート、柔道、大相撲、ゴルフ、競馬など、数多のスポーツに関わり、スポーツ団体やスポーツ選手との交流を深めた。
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