1945年-1951年
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「アメリカ合衆国の保守主義」の記事における「1945年-1951年」の解説
現代の保守政治の動きは、伝統的な保守主義とリバタリアンの要素が組み合わされ、第二次世界大戦後に出現したが、その根を辿れば直接ニュー・ディール政策に対する反対があった。1946年、共和党保守派が議会を支配し、ルーズベルト政権下で連邦政府に浸透していた共産主義者の調査に乗り出した。リチャード・ニクソン下院議員は国務省上級職員のアルジャー・ヒスをソビエトのスパイだと告発した。元共産主義者で反共の指導者となり、保守派にとっては英雄となったホイッタカー・チェンバーズの証言に基づき、ヒスは偽証罪で有罪とされた。 ハリー・S・トルーマン大統領(在任1945年-1953年)は、第二次世界大戦におけるアメリカの同盟者だったソビエト連邦を、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プランおよびNATOを通じて封じ込め政策に出た。トルーマンの冷戦政策は孤立主義者の残党を除いて保守派大半の支持を得た。極左(共産党員とその支持者)がロシアとのデタントを継続することを望み、ルーズベルト政権で副大統領を務めたヘンリー・A・ウォレスが行った1948年の無謀な運動は広い支持を得られず、民主党極左派の大半を潰すことになった。1948年にトルーマンは再選されたが、その自慢の「フェア・ディール政策」は、保守連合が議会で国内政策を固めたために、効力を発揮できなかった。しかし、保守合同は外交政策では如何なる役割も果たさなかった。 1947年、議会の保守合同は、経営者と労働組合の権利をバランスさせ、共産主義組合指導者を非合法化するタフト=ハートリー法を成立させた。しかし、労働組合と民主党から共産主義者を根絶やしにする仕事は、自動車工業組合のウォルター・ロイターや映画俳優組合のロナルド・レーガンのようなリベラル派が行った(レーガンは当時民主党リベラル派だった)。 議会における共和党の典型的な保守派はノア・M・メイソン(1882年-1965年)であり、1937年から1962年までイリノイ州の田園部が広がる南部の選出だった。メイソンは、同僚のエバレット・マッキンリー・ダークセンほど著名ではなかったが、連邦政府による事業の規制を恐れたために、連邦政府の役割を最小にする州の権限の考え方を支持した。メイソンはルーズベルトを嫌い、連邦政府の大きな歳出に反対する演説を何度も行った。ニュー・ディール政策の推進者、例えばイブリン・バーンズ、ヘンリー・A・ウォレス、アドルフ・A・バール・ジュニア、ポール・ポーターなどを社会主義者と呼び、その政策はファシズムに似ていると示唆した。下院非米活動委員会(1938年-1943年)の委員として共産主義と戦い、1950年にはジョーゼフ・マッカーシーの暴露を促した。
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