1935年-1941年
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「ユーゴスラビア王国」の記事における「1935年-1941年」の解説
公式に確認されている、アレクサンダル1世の最後の言葉は、「ユーゴスラビアを救え、そしてフランスとの友好を」であった。アレクサンダルの後継者たちは、前者のために最善の努力を尽くしたが、後者のフランスとの友好に関しては、次第に廃れていった。それには複数の理由があった。1930年代中期の時点で、フランスは内部分裂状態にあり、東ヨーロッパでの重要性は低下し、同盟国の支援は次第に困難になっていった。これによって東ヨーロッパでのフランスの同盟国はいずれも深刻な経済苦境に陥った。それに比べて、ドイツはこれに代わる協力関係を東ヨーロッパ諸国と結ぶことを望むようになった。この動きは、対フランス関係を重視する東ヨーロッパの国々の意向に反するものと考えられた。イタリアによるウスタシャ支援はドイツのイタリアとの関係の緊密化の意向を促進した。マチェクはイタリアがユーゴスラビアからのクロアチアの分離を支援するだろうと主張すると、摂政王子パヴレはイタリアとの関係改善は不可避であると判断した。クロアチア農民党がイタリアからの支援を受ける可能性をつぶすために、イタリアとの友好条約が1937年に結ばれた。これによってムッソリーニはウスタシャの指導者の一部を逮捕し、ウスタシャによるユーゴスラビアへの脅威は回避された。1938年、ドイツはオーストリアを併合し、ユーゴスラビアの隣国となった。イギリスおよびフランスのこれに対する反応は弱く、続くズデーデン危機のさなか、ユーゴスラビア政府は(1)欧州大戦が避けられないこと、(2)イギリスおよびフランスの支援は期待できず、ユーゴスラビアは中立を維持すべきであることを決定した。パヴレの個人的なイギリスへの愛着や、セルビアの伝統的なフランスへの傾倒にもかかわらず、このように決定された。イタリアやドイツはユーゴスラビアの国内問題に干渉を試み、マチェクはその恩恵を受けた。最終的に、摂政パヴレは1939年8月、クロアチア自治州の設置に同意した。しかしこれでもドイツやイタリアからの圧力はやまず、ユーゴスラビアの戦略的立場は悪化し続けた。ユーゴスラビアはドイツ市場への依存度を高める一方(ユーゴスラビアからの輸出の90%ほどが対ドイツとなっていた)、1939年4月にはイタリアがアルバニアを侵略し、併合した。1940年10月、イタリアはギリシャを攻撃した。この時点で、フランスは既にドイツ占領下となっており、ユーゴスラビアにとってイギリスのみが期待できる同盟国となった。ユーゴスラビアはソビエト連邦を承認していなかった。イギリスはユーゴスラビアの大戦への参戦を期待していたが、ユーゴスラビアはこれを拒絶していた。1940年末、ドイツのアドルフ・ヒトラーはユーゴスラビアに対して、明確にどちらかに着くよう求め、ユーゴスラビアへの圧力を高め、1941年3月25日の枢軸国加盟へとつながった。その2日後、摂政パヴレはクーデターにより失脚し、おいのペータル2世は成人年齢に達したものと宣言された。しかし、ドゥシャン・シモヴィッチ率いる新しい政権はドイツに対し、ユーゴスラビアが枢軸国に留まることを確約した。しかしヒトラーはユーゴスラビア侵攻を命じた。1941年4月6日、ベオグラードは爆撃され、4月10日、クロアチア独立国は建国を宣言し、4月17日、ユーゴスラビア軍は降伏した。
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