1935年-1941年とは? わかりやすく解説

1935年-1941年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 00:14 UTC 版)

ユーゴスラビア王国」の記事における「1935年-1941年」の解説

公式に確認されている、アレクサンダル1世最後の言葉は、「ユーゴスラビア救え、そしてフランスとの友好を」であったアレクサンダル後継者たちは、前者のために最善努力尽くしたが、後者フランスとの友好に関しては、次第廃れていった。それには複数理由があった。1930年代中期時点で、フランス内部分裂状態にあり、東ヨーロッパでの重要性低下し同盟国支援次第困難になっていった。これによって東ヨーロッパでのフランス同盟国はいずれ深刻な経済苦境陥った。それに比べてドイツはこれに代わる協力関係東ヨーロッパ諸国と結ぶことを望むようになった。この動きは、対フランス関係を重視する東ヨーロッパ国々意向反するものと考えられた。イタリアによるウスタシャ支援ドイツイタリアとの関係の緊密化の意向促進した。マチェクはイタリアユーゴスラビアからのクロアチア分離支援するだろうと主張すると、摂政王子パヴレイタリアとの関係改善不可避であると判断したクロアチア農民党イタリアからの支援を受ける可能性をつぶすために、イタリアとの友好条約1937年結ばれた。これによってムッソリーニウスタシャ指導者一部逮捕しウスタシャによるユーゴスラビアへの脅威回避された。1938年ドイツオーストリア併合しユーゴスラビア隣国となったイギリスおよびフランスのこれに対す反応弱く、続くズデーデン危機のさなか、ユーゴスラビア政府(1)欧州大戦避けられないこと、(2)イギリスおよびフランスの支援期待できず、ユーゴスラビア中立維持すべきであることを決定したパヴレ個人的なイギリスへ愛着や、セルビア伝統的なフランスへ傾倒にもかかわらずこのように決定された。イタリアドイツユーゴスラビア国内問題干渉試み、マチェクはその恩恵受けた最終的に摂政パヴレ1939年8月クロアチア自治州設置同意した。しかしこれでもドイツイタリアから圧力はやまず、ユーゴスラビア戦略的立場悪化し続けたユーゴスラビアドイツ市場への依存度を高め一方ユーゴスラビアからの輸出90%ほどが対ドイツとなっていた)、1939年4月にはイタリアアルバニア侵略し併合した1940年10月イタリアギリシャ攻撃した。この時点で、フランスは既にドイツ占領下となっており、ユーゴスラビアにとってイギリスのみが期待できる同盟国となったユーゴスラビアソビエト連邦承認していなかった。イギリスユーゴスラビア大戦への参戦期待していたが、ユーゴスラビアはこれを拒絶していた。1940年末、ドイツアドルフ・ヒトラーユーゴスラビアに対して明確にどちらかに着くよう求めユーゴスラビアへの圧力高め1941年3月25日枢軸国加盟へとつながったその2日後、摂政パヴレクーデターにより失脚し、おいのペータル2世成人年齢達したものと宣言された。しかし、ドゥシャン・シモヴィッチ率い新し政権ドイツ対しユーゴスラビア枢軸国留まることを確約した。しかしヒトラーユーゴスラビア侵攻命じた1941年4月6日ベオグラード爆撃され4月10日クロアチア独立国建国宣言し4月17日ユーゴスラビア軍降伏した

※この「1935年-1941年」の解説は、「ユーゴスラビア王国」の解説の一部です。
「1935年-1941年」を含む「ユーゴスラビア王国」の記事については、「ユーゴスラビア王国」の概要を参照ください。

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