1929年の大恐慌と共和党優位の終焉
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「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1929年の大恐慌と共和党優位の終焉」の解説
1929年、ウォール街で株が大暴落し、大恐慌が始まった。生来行動派だったフーバー大統領は、彼なりに最善を尽くして救済策の実施を試みたが、自らが信じるところの「共和党の原則」に固執したため、連邦政府が私企業救済に対して直接乗り出すことはなかった。1930年の中間選挙では民主党が躍進し、ウィルソン政権以来初めて、議会の議席数を共和党と同数にし(議会の支配はできなかった)、1932年の大統領選挙では、遂に民主党のフランクリン・D・ルーズベルトに対してフーバーが惨敗を喫した。それまで共和党の硬い地盤であった北部の大都市も、この選挙で初めて、民主党に明け渡された。アメリカ政治は民主党優位の第五政党制時代に移り、この後約30年間、F・D・ルーズベルトに始まるニューディール連合がアメリカの政治を支配し、共和党が政権にあったのは、ドワイト・アイゼンハワーが大統領を務めた2期だけであった。。 F・D・ルーズベルトは1933年に政権に就くと、電光石火の早さでニューディール法案を通過させた。1934年の中間選挙(英語版)では、共和党は上院の議席数を10減らして25席に留まったのに対し、民主党が71人の上院議員を当選させた。下院の議席数もまた同様だった。議会を完全に掌握したルーズベルトが進めた急進的な第二次ニューディール政策は、共和党からは階級闘争的で社会主義的であるとして激しく批判された。政権の繰り出す法案の量と、それをまったく食い止められない現状に、共和党内には「ホワイトハウスのあの男」に対する敵意や、時には憎悪までもが渦巻いた。 1936年の大統領選挙に向けて、共和党内では穏健派のカンザス州知事のアルフレッド・ランドンが若い党員の支持を集め、ハーバート・フーバーの派閥を破った。ランドンはニューディール政策の大部分を支持していたが、選挙運動が十分効果的でなかったこともあり、本選挙ではルーズベルトに大敗した。新聞社の大半は共和党穏健派のランドンを支持していた。しかし、アメリカの上位15都市において、社説でランドン支持を表明した新聞が発行部数の70%を占めていたのに対し、実際の選挙ではルーズベルトが69%の票を獲得した。ルーズベルトは大手紙を無視し、ラジオを通じて有権者に直接訴えたのだった。この選挙でルーズベルトは、旧来からの民主党員とともに、活気を取り戻した労働組合や、都市部のマシーン(集票組織)、そして公共事業促進局のおかげで、全国48州のうち46州で勝利した。政界の変化は確たるものとなった。1928年以降、共和党は下院で178議席、上院で40議席、そして19州の知事を失い、わずかに下院89議席と上院16議席を有するのみとなり、民主党の現職議員に勝利したのはマサチューセッツ州選出のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア上院議員だけだった。
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