1929年の総選挙に敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:45 UTC 版)
「スタンリー・ボールドウィン」の記事における「1929年の総選挙に敗北」の解説
ボールドウィン内閣は1928年7月に男女平等選挙権を認める第五次選挙法改正を行ったが、これによって新たに選挙権を得た人々の登録が行われるまでは総選挙はできないとして解散総選挙を避けていた。しかし結局1929年5月30日には総選挙が行われることになった。 選挙戦でボールドウィンは「安全第一」(Safety First)のスローガンを採用した。このスローガンには途方もない実験をしようとしている労働党よりも安全な保守党に任せるべきという意味が込められていた。特に選挙戦の前半、ボールドウィンは労働党攻撃を中心に行い、3月27日のマンチェスターでの演説は、労働党の国有化方針を「国有化は低賃金、生活水準の低下、失業の増大を招く」「企業精神を殺す」「イギリスの官吏は世界一優秀であるが、彼らの訓練や立場では、企業を管理しえない」と論じて批判した。しかし労働党攻撃宣伝があまり奏功していないと見ると帝国維持をスローガンに切り替え、国民感情に訴えかけることを目指した。ボールドウィンは5月24日のハイド・パークでの演説で「自治領国民は、それら自身の政府によって統治されている。我らは自治領と平等な立場で自由な関係を維持しているが、我らは王への共通の忠誠で統一されている。この方式での統一が我らの力となっている。それは奉仕の紐帯である。我らは物質的繁栄のみならず、全世界の平和促進、交通の発展のために団結して協力しているのである」と論じた。 一方労働党はボールドウィン内閣が対ソ外交関係を断絶させたせいでソ連という原料供給地、商品市場が失われ、その結果失業が増大していると論じ、1927年の労働争議及び労働組合法が労働組合のゼネスト権を奪ったと批判した。 全体として保守党の争点が曖昧だったのに対し、労働党の争点は分かりやすく、結果5月30日の選挙は、保守党260議席、労働党287議席、自由党59議席という結果に終わった。この敗北で再びボールドウィン率いる保守党は下野することになり、マクドナルド労働党政権が発足した。
※この「1929年の総選挙に敗北」の解説は、「スタンリー・ボールドウィン」の解説の一部です。
「1929年の総選挙に敗北」を含む「スタンリー・ボールドウィン」の記事については、「スタンリー・ボールドウィン」の概要を参照ください。
- 1929年の総選挙に敗北のページへのリンク