1880–1900: 著作家および活動家として
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「アンドリュー・カーネギー」の記事における「1880–1900: 著作家および活動家として」の解説
カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人マシュー・アーノルドやイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーを支援し、歴代のアメリカ合衆国大統領や政治家や著名な作家とも親交した。 1879年、故郷ダンファームリンに水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、ニューヨーク大学医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、組織学の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。 1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために触媒として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相ウィリアム・グラッドストンを含め多くのイギリス人の友人がいた。 1886年、弟のトーマスが43歳で他界。それでも事業での成功は続いた。そのころスペリオル湖周辺の価値の高い鉄鉱山を安く購入している。イギリスへの旅行の後、その経験を An American Four-in-hand in Britain という本にして出版している。また、複数の雑誌に寄稿するようになった。例えば、ジェイムズ・ノウルズ(英語版)が編集する Nineteenth Century やロイド・ブライス(英語版)が編集する North American Review などである。 1886年、Triumphant Democracy(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの君主制よりもアメリカの共和制のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った王冠と壊れた王笏が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。 1889年、North American Review 6月号に "Wealth" と題した記事を掲載。これを読んだウィリアム・グラッドストンはイングランドでの出版を持ちかけ、Pall Mall Gazette に "The Gospel of Wealth"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは人生を価値あるものとする鍵はフィランソロピーだとした。 カーネギーは偉大なジャーナリストとしても知られており、新聞に寄稿したり編集者に手紙を書いたりした。新聞を読む習慣は幼少期のころからあった。例えば、イングランドとスコットランドを旅行中に書き始めた "Round the world" と題した記事などがある。 1898年、カーネギーはフィリピン独立を画策した。米西戦争終結に伴い、アメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを購入。アメリカの帝国主義に対抗すべく、アメリカからの独立を買い取れるようにフィリピンの人々に個人的に2000万ドルを提供しようとした。しかし、この申し出を受ける者は現れなかった。米西戦争の結果キューバがアメリカに併合されそうになり、これにも反対した。こちらはグロバー・クリーブランドやベンジャミン・ハリソンやマーク・トウェインらと共に結成したアメリカ反帝国主義連盟による反対が若干功を奏した。
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