1880年-1881年
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「蒼龍 (御召艦)」の記事における「1880年-1881年」の解説
1880年(明治13年)1月29日(または2月25日)に軍務局所轄の蒼龍丸は予備船と定められた。 3月22日に蒼龍丸は横浜に回航し、翌23日から榎本武揚海軍卿が横須賀ヘ出張するために使用された。3月24日横浜を出港、同日横須賀着。3月26日横須賀発、浦賀を経由し、同日横浜に到着、海軍省壕外川口に帰着した。 4月22日、ボイラー掃除の為に機関開放の届出があり、以後約5週間を予定した。しかし横須賀造船所では鳳翔、摂津の修理も行っており、予算が不足した。測量任務を予定していた鳳翔の修理が優先され、結果蒼龍丸の修理は6月以降となった。6月23日、機関の掃除終了の届出が出された。 6月28日海軍省壕外川口から横浜に回航した。ロシア公使が乗船し、6月29日横浜発、横須賀に回航し、同日横浜着。6月30日海軍省壕外川口に戻った。(『海軍省報告書』によると、ロシア海軍中将の乗船のために7月23日本省外堀から横浜港に回航、翌24日横浜を出港し横須賀間を往復、同日本省外堀に戻った。) 8月19日、蒼龍丸は軍務局所轄(海軍省堀に係留)から東海鎮守府所轄(横浜港)に変更、9月10日、横浜に回航され東海鎮守府が受領した。ただ横浜港では風波の高い場合もあるので、9月13日に横須賀港に回航、当分逸見村前に繋留されることになった。 10月に機械室内の塗装を剥がした所、内板やリブ数本が腐敗しているのが見つかった。蒼龍丸は室内の塗装全てを剥がして点検する必要があり、他の繋泊艦船の点検も必要になった。蒼龍丸の室内の塗装剥がしは12月13日に開始された。翌1881年(明治14年)1月にリブの修理が5,500円、機関修理が6,000円など計11,800円と見積もられ、修理は6月完了を予定した。このころの修理は築地川崎造船所で行ったと記録が残る。4月27日(または4月26日)に石川島に回航し、4月29日から10月27日まで修理を行った。
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1880年-1881年
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「石川 (練習艦)」の記事における「1880年-1881年」の解説
1880年(明治13年)1月10日浦賀発、同日夏島沖に碇泊、11日鶴見崎沖に碇泊、12日品川に到着、17日品川発、同日浦賀港に帰港した。 繋泊練習船 1月20日東海鎮守府所轄の石川丸は繋泊練習船に指定された。3月5日浦賀発、同日館山湾に到着、7日同地発、8日浦賀港に帰港した。3月18日浦賀発、翌19日品川に到着、24日品川発、同日浦賀港に帰港した。6月24日浦賀発、同日網代港に入港、30日網代を出港、同日浦賀港に帰港した。 東京湾内訓練 10月5日浦賀を出港、東京湾内で訓練を行い、本牧、品川に碇泊し10月11日浦賀に帰港した。石川丸は11月4日から11月16日まで横須賀造船所で修理を行った。11月12日浦賀を出港、東京湾内で訓練を行い、夏島、品川に碇泊し11月18日浦賀に帰港した。12月14日品川に回航、20日浦賀に戻った。1881年(明治14年)3月16日浦賀を出港、東京湾内で訓練を行い、富岡、品川に碇泊し3月22日浦賀に帰港した。
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1880年 - 1881年
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「天城 (スループ)」の記事における「1880年 - 1881年」の解説
1880年(明治13年)1月27日三条太政大臣が乗艦し横浜を出港、同日熱海到着、28日熱海発、横浜に帰港した。 朝鮮回航 元山津港と釜山港の邦人保護のために4月18日横浜港を出港、兵庫、三原、門司に寄港した。門司出航後にスクリュー翼1枚が脱落したため5月1日朝鮮国松島に寄港、5月2日釜山港に入港した。5月18日釜山発、20日元山津着。6月2日元山津発、風波の為に同日長箭洞に避泊、同地を略測した。6月4日長箭洞、5日松島に寄港し、6月7日釜山に到着した。6月19日熊川に回航、翌20日釜山に戻った。6月23日釜山発、25日元山津に到着した。8月13日元山津を出港、8月14日釜山入港。8月20日釜山出港、スクリューレード修理の為に長崎へ向かい、21日長崎港に入港した。9月17日長崎を出港、以後釜山、迎日湾、元山津などを巡り11月9日門司に寄港した。再びスクリューレード修理の為に11月11日門司発、翌12日長崎に入港した。 花房公使を乗せて12月4日長崎を出港し、翌5日釜山着。その後三島、仁川湾口、月尾島を巡り、1881年(明治14年)1月1日釜山着。2月18日釜山を出港し帰途についた。途中門司、兵庫などに寄港し3月17日午後2時35分横浜港に帰港した。 乗員休暇のために3月24日品川に回航した。皇后の横須賀行啓のために5月25日横浜に回航した。 8月6日横浜港を出港し館山湾に回航した。10月11日館山湾を出港し、横浜港に帰港した。
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