高校卒業後〜アテネ五輪前
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「渋井陽子」の記事における「高校卒業後〜アテネ五輪前」の解説
1997年に高校卒業後は大学には進まずに、当時の三井(現・三井住友)海上火災保険に入社、女子陸上部へ入部。20世紀中は、トラック競技・駅伝・長距離走で力を蓄えていった。 2001年1月の第20回記念大阪国際女子マラソンが初マラソンだったが、いきなり2時間23分11秒の当時初マラソン世界最高記録を達成して初優勝(当時1位記録を3分以上更新)、衝撃的なマラソンデビューを果たしている。同年8月の、世界陸上選手権エドモントン大会女子マラソン代表に選出された。 そのエドモントン世界陸上女子マラソンでは、本番前に風邪で体調を崩しながらも、リディア・シモン(ルーマニア)、土佐、スベトラーナ・ザハロワ(ロシア)らと先頭集団で最後まで争い、惜しくもメダルにあと一歩の4位に入賞。土佐礼子の銀メダル獲得と併せて、日本女子のマラソン団体優勝に貢献する(世界陸上では国別の団体戦も行われているため)。一躍2004年8月開催のアテネオリンピックの代表有力候補として注目されるようになった。 翌2002年5月には、アメリカのパロアルトの競技会で女子10000mの日本記録更新に挑戦、当時川上優子の持つ31分09秒46のタイムを20秒以上更新する、日本女子で初めて30分台に突入する30分48秒89の日本新記録を達成した(2位のディーナ・カスター(アメリカ合衆国)も当時のアメリカ新記録を樹立)。この記録は、新谷仁美が2020年12月4日に30分20秒44の新記録を出すまで18年間にわたって日本記録であった。 同年10月のシカゴマラソンでは、日本記録更新も期待されていた。序盤からポーラ・ラドクリフ(イギリス)、キャサリン・ヌデレバ(ケニア)らのハイペースに付いて行き、終盤はややペースダウンとなるが2時間21分22秒の3位に入り、自己記録を大きく更新した。 2003年3月の第24回名古屋国際女子マラソンに出走予定だったが、エントリー発表直前に足を故障、出場を断念。2003年8月の世界陸上選手権パリ大会は、マラソンでは無く10000mで出場したが周回遅れとなり、結局31分42秒01の記録で14位に終わる。 翌2004年アテネ五輪の女子マラソン代表選考レースだった、同年1月の第23回大阪国際女子マラソンでは、前半の思わぬ超スローペースに惑わされる。10Km過ぎから渋井自ら先頭集団を引っ張る形となり、27km地点付近の大阪城公園内で千葉真子の飛び出しには何とかついたが、優勝した坂本直子の30km地点から猛烈な高速スパートには全くついていけなかった。その後は完全にスローダウンとなり後続の選手に次々抜かれ、結局ゴール順位は9位と完敗だった。 2004年6月のアテネ五輪陸上競技選考会だった日本陸上選手権では、長距離トラック代表で五輪選出を目指したものの、女子10000mは9位、女子5000mは12位に終わり、目標だったアテネ五輪出場はならなかった。
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