電化と路線延長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 10:13 UTC 版)
この時代、バスの脅威にさらされるようになった鉄道は、気動車や電化して電車の導入に踏み切るところが相次ぐようになり、近江鉄道でも電化に乗り出した。まず本線の彦根 - 高宮間と多賀線を直流600ボルトで電化し、1925年(大正14年)3月12日から電車の運行を開始した。本線の残りの区間も電化を計画したが、必要な資金の調達のめどは立たなかった。そこで、折から滋賀県一帯への電力供給事業を開始していた宇治川電気(関西電力の前身の1社)の傘下に入ることになり、同社の資金を得て1927年(昭和2年)から高宮 - 貴生川間の電化工事に着手した。1928年(昭和3年)4月18日に直流1500ボルトでの電化工事と、既存の彦根 - 多賀間の1500ボルトへの昇圧工事が完成して電車の運転が開始された。蒸気機関車は本線の列車牽引からは撤退し、駅の入換作業に残るだけとなったが、第二次世界大戦後まで一部の機関車が残っている。また同時に閉塞方式を票券閉塞からタブレット閉塞に変更している。 昭和初期には路線の延長を計画した。まず1926年(大正15年)11月7日に米原 - 彦根間の延長免許を申請し、1927年(昭和2年)8月2日に免許され、1929年(昭和4年)11月25日に着工した。当初は彦根駅から一旦南側へ向かい、旧中山道に沿って米原へ行く経路を計画していたが、佐和山トンネルを建設して直行する経路が選択され、1931年(昭和6年)3月15日に開通した。これにより米原 - 彦根間は国鉄東海道本線と直接競合することになり、所要時間と運賃では大差がなかったが列車本数では電車運転の近江鉄道が蒸気機関車運転の東海道本線に勝り、国鉄側は対抗して長浜 - 米原 - 彦根間に気動車を投入して高頻度運転(フリークエントサービス)を開始した。地元ではさらに、近江鉄道を長浜まで延長して欲しいとの希望もあったが、長浜まで北上すると雪の量が多く、電車の耐雪構造が必要になることや、広大な国鉄の米原駅構内を横断する立体交差に多額の費用がかかることなどから、検討されたのみに終わった。 続いて、1927年(昭和2年)6月7日に貴生川から三重県の上野町までの延長免許を申請した。伊賀電気鉄道(現在の伊賀鉄道伊賀線)の広小路駅まで建設し、そこから伊賀電気鉄道線に乗り入れて、当時建設中であった参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線)と接続して、伊勢神宮へと至る経路を形成するものであった(近江鉄道宇治山田延伸構想)。参宮急行との接続駅は阿保駅(現在の青山町駅)、名張駅、伊賀神戸駅と何度か計画が変更されたが、実現すれば米原延長線とも対応し、米原から宇治山田まで3時間を切る所要時間を見込んでいた。1928年(昭和3年)10月11日に免許されたが、当時の経済情勢から着工は遅れることになった。そのうちに戦争となり、買収済みの土地は小作に出していたが、第二次世界大戦後農地改革によって手放すこととなり、最終的に1958年(昭和33年)12月3日に起業廃止として免許を返上した。 これ以外に、1927年(昭和2年)1月29日に八日市と大津市を結ぶ路線の免許を申請しているが、琵琶湖鉄道汽船石山線(現在の京阪石山坂本線)などの並行路線に悪影響を与えるとの理由で同年8月2日に却下された。
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