電化による近代化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 18:15 UTC 版)
戦中および戦後の混乱期は、燃料統制に伴う石油の入手難から気動車の荷台にガス発生炉を搭載して木炭ガス燃料で走行させ、さらに釜石製鉄所から中古のドイツ製蒸気機関車を購入してしのいだ。しかし、石油・石炭等の燃料供給事情は戦時中から戦後にかけて極端に悪化し、燃料費暴騰で運行経費が著しく増大した。 対策として一時は全線バス化も検討されたが、経営陣は電化を実施の上での鉄道存続を決定、物資難で工事も困難な状況下であったが、必要となる資材・人員を取り揃えて1949年に全線の電化工事を完了し、社名も下津井電鉄に変更した。 電化当初は既存の大型気動車6両を電車に改造し、それらに制御車化された他の気動車を組み合わせた総括制御運転を行ったほか、必要に応じて蒸気機関車時代以来の客貨車を電車牽引することで対応した。日本の762mm軌間の電化軽便鉄道で総括制御方式を導入したのはこの下津井電鉄が最初の例である。 そののち1951年に廃止となった赤穂鉄道からの譲受車による開業以来の老朽客車の置き換え、完全な新車の電車増備や、1955年に改軌した栗原電鉄からの中古電車導入、あるいは気動車改造電車の車体更新によって車両整備が順次進められた。 風光明媚な鷲羽山への観光客増加も手伝って、昭和30年代に全盛期を迎え、重要拠点ゆえに老朽化が目立った児島・下津井両駅の新築による建て替えなどの大がかりな設備投資も順次実施されている。特に児島駅は鉄筋コンクリート2階(一部3階)建ての堂々たるビルに建て替えられ、児島市の玄関口としての役割を倉敷市との合併まで担うこととなった。
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