電化から終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 15:09 UTC 版)
開業からしばらくした1923年(大正12年)7月の株主総会において、松江・出雲大社までの路線延長が決議された。出雲大社への延長路線は、当初は出雲今市から出雲大社へ国鉄大社線と並行する計画であったが、競合路線とみなされ、許可が下りなかった。そこで、武志から出雲大社への路線に変更した上で、「国鉄と終点は同一であるが、一畑薬師への参拝客も利用可能である」と主張した上で、政府補助金を辞退する動きを見せた。また、1922年(大正11年)には東京の有力実業家が「松江電気鉄道」として美保関と出雲大社を結ぶ計画を示しており、一畑軽便鉄道では他社の鉄道建設を防ぐために、具申書や嘆願書などを鉄道大臣へ提出するなどの運動も行った。その結果、一畑軽便鉄道の計画に対しては1924年(大正13年)9月に敷設を免許されることになった。松江電気鉄道の計画はその主な目的が鉄道事業ではないと判断されたため退けられた。その後、1926年(大正15年)10月9日に、大社への路線の起点について川跡への変更が認可された。1927年(昭和2年)には大社への路線の起点を大津起点とする変更申請を行っているが、実現していない。 1928年(昭和3年)に一畑口 - 松江温泉間が開業したころの路線図 1930年(昭和5年)に大社線が開業したころの路線図 これらの延長線は、当初はそれまでと同様の蒸気動力車による運行で計画されていたが、その頃は民間鉄道は電気動力車による運行に変わりつつあった。そこで、既設線も含めて全線を電化することになり、1925年(大正14年)7月には社名を「一畑電気鉄道株式会社」に改めた。まず既設線である出雲今市と一畑の間が1927年(昭和2年)10月1日に電化、1928年(昭和3年)4月5日には小境灘から北松江までの区間が当初より電化路線として開業、1930年(昭和5年)2月2日には川跡から大社神門(当時)までの延長線が当初より電化路線として開業した。電化開業に際しては、当時としては最新鋭の電車を導入した。出雲今市から一畑までは40分前後に短縮されたほか、1928年(昭和3年)11月のダイヤ改正では1日2往復の急行列車が設定されている。 しかし、その後第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)11月16日、小境灘から一畑までの区間については不要不急路線として営業休止の上で撤去し、その軌条を戦時輸送を行っていた名古屋鉄道に供出するように運輸通信省からの要請があった。これを受けて、同区間については同年12月10日に営業を休止、その状態で終戦を迎えることになった。
※この「電化から終戦まで」の解説は、「一畑電車」の解説の一部です。
「電化から終戦まで」を含む「一畑電車」の記事については、「一畑電車」の概要を参照ください。
- 電化から終戦までのページへのリンク