雨量計の起源を巡って
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1910年、朝鮮総督府観測所の初代所長を務めていた和田雄治は、「韓国観測所学術報文」を発行し、「世宗英祖兩朝ノ測雨器」という論文で測雨器を紹介した。これには英・独・仏語の概要が付けられており、日韓のみならず西欧諸国の関心を惹いた。それまで西欧では、初めて雨量計を用いたのはイタリアの数学者ベネデット・カステリ(英語版)(1639年)だと信じられていたが、和田は朝鮮の測雨器がカステリに200年先行していたことを広く認知させた。 韓国や北朝鮮において、測雨器は世界で初めて科学的な気象観測を行った輝かしい事例としてたびたび言及される:198:167:128。5月19日は韓国で測雨器発明を記念する「発明の日」に制定されており、2018年5月19日には「蔣英実の記念」として測雨器がGoogle Doodleに取り上げられた。 測雨器は一般に史上初の雨量計だと考えられているが、この見方には異論もある。古来、降雨量の測定は様々な時代、様々な文化で(おそらく相互に無関係に)行われていた。紀元前4世紀にインドで書かれた『実利論』には、器に雨水を溜めて土地ごとの年間降雨量を測っていたことや、それに即して作物の種類を選んだことがすでに記録されている。中国では遅くとも南宋時代には雨量測定が行われていた。1247年に南宋で書かれた数学書、『数書九章』の「天地測雨」と題する節では、天地盆と呼ばれる円錐台形の容器に溜まった雨水の量を計算する問題が扱われていた。問題文には「今日、どの郡・県にも多くの天地盆が設置されており、降雨量を知るために役立っている」という記述も見受けられる。さらに明代には各地の雨量記録を皇帝に上奏する制度があった。これらの事例は必ずしも専用の器を用いていたとは断言できないが、雨量計の起源と関連してしばしば紹介される。 測雨器の成立に中国の先行例が影響した可能性が指摘されており、議論が行われてきた。1954年、中国の気象学者竺可楨は、測雨台遺物に清の元号「乾隆庚寅」が刻まれていたことを理由に「朝鮮の測雨器は清代の中国で製造されたもの」という主張を広めた。だが、李氏朝鮮でも清の元号を公式に用いていたため、この説は根拠が薄いと考えられている。また、『数書九章』に見られるような雨量計測法が韓国に移入されて測雨器となった可能性もある。山田慶児は朝鮮の使節が明朝の科学技術を積極的に学んでいたことを指摘して、「測雨の情報がまったく伝わっていなかったと考えるほうがむしろ難しいようにおもわれる」と書いている:483。Kim Sung Samはこの説に対して反論を加え、あくまで朝鮮で独自に開発されたと主張している。Kimによれば、『数書九章』の内容は数学上の練習問題にすぎず、雨量観測が実践されていた証拠はない。さらに、当時の中国人には降雨量の定量測定という発想がなかったという。 とはいえ、仮に朝鮮の測雨器が中国に起源を持っていたとしても、その独自性は標準計器を制定して科学的な観測を行った点にある:170。『数書九章』によれば天地盆の形状は一定しておらず、明代までの中国の文献にも雨量計の形状についてほとんど記述がない。したがって、標準規格の制定という思想や、容器形状を円筒形にして測定の便を図るといった創意は世宗代の朝鮮に帰せられる:483-484。 いずれにせよ、近代以前の長期にわたる降雨量記録は数少なく、気候変動についての貴重な資料となっている。和田は測雨器による観測データを月ごとにまとめて1917年に公刊したが、1990年代の研究によってその信頼性は確かめられている。2001年には、新たな史料の調査に基づいて、1777年から1907年までの降雨量の日変化が明らかにされた。
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