離党から復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:49 UTC 版)
脱党後、同じく問責脱党組である尾崎行雄が主催し「純潔健全派」と称した藩閥政府に対峙する20人からなる同志研究会に所属する。1903年(明治36年)第18回帝国議会にて奉答文事件が起こり衆議院解散。1904年(明治37年)日露戦争勃発、同年第9回衆議院議員総選挙では中立(無所属)で出馬したが落選した。1905年(明治38年)3月まで同志研究会で数度会合した後 ハワイで出征軍人家族への援助寄付金集めに奔走した。なお同志研究会は戦争終結頃に解体となり、立憲政友会に復帰することになるが、議員ではないため役員等にはついておらず顕著な活動は行っていない。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙にて再当選。1909年(明治42年)党大会で中国代議士から協議員に選出され、同年第26回帝国議会前に政務調査会第5分科(逓信・農商務)理事に任命された。戦争時の増税の後処理を行っていた時期であり、望月は税制を整理し減税を主張した。立憲政友会は第一党であったが藩閥政府に弱腰で妥協は続いたが、それを党の大多数は支持した。決裂後の衆議院解散を恐れていたためである。それに対して望月は党幹部反対派の姿勢は崩さなかったものの、かつて問責脱党組でそのとき幹部反対派は望月と日向輝武しかいない状況であった。 大正政変の時代だった。官僚藩閥は衰退し政党が民衆勢力を背景に飛躍する時代であった。望月は正しいと思ったことには妥協せず貫いた。40歳前後の血気盛んなこの時期いわゆる“ヒラ代議士”の身分であったが、地方の経済状態改善のため藩閥政府に対峙し、議会では大暴れしていた。 政友会内での出世は遅い方であった。30歳ぐらいまで全く政治の舞台に立たなかったこと、1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙では失格者が出たため繰り上げ当選(補欠当選)したことなどこの時代まで選挙地盤が弱かったこと、法制や財政などの専門的分野に特化しなかったせいであり、若い議員の後塵を拝していた。出世の遅かった理由について鵜澤總明は、望月が常に人を先に立てて自分は一歩下がって党のために尽力していたため、と述べている。望月は1912年(明治45年/大正元年)院内幹事就任、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)まで毎年幹事を務めた。若手時代の小坂順造は議員としては先輩にあたる望月と一緒に幹事を務めたという。横田千之助が頭角を現した際には「お前は外で働け、俺は中で働く」と横田を前面に出し望月はそのサポートに徹した。1917年(大正6年)次の衆議院議長をめぐって党内で大岡育造と小川平吉が対立した際には、議員として先輩でありかつて同じ問責脱党組であった小川に対し望月は持論を述べ説得し議長候補を辞退させている。すべて愛党精神からの行動であったが、こうした党内調整が徐々に評価されていった。 そして1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙以降、望月の選挙地盤は確立し順調に当選していった。
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