雑誌の概要
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「シュルレアリスム革命」の記事における「雑誌の概要」の解説
『シュルレアリスム革命』誌はアラゴン、ブルトン、ナヴィル、ペレによって1924年に創刊され、第4号まではナヴィルとペレが共同で編集し、第5号からはブルトンが編集長を務めた。創刊号の発行日は1924年12月1日で、出版社はガリマール書店である(現ガリマール出版社は1919年から1961年まで「ガリマール書店」という名称であった)。創刊号の表紙には、この「革命」がフランス革命に匹敵するほどの大革命であるという意味で、「新たな人権宣言に漕ぎつけなければならない」と書かれている。また、参加者の一人マン・レイによる表紙の写真は、この運動に参加した文学者・芸術家全員の集合写真と、自動記述や催眠実験の様子を写した写真を組み合わせたものであり、さらに、刊行の趣意を、「シュルレアリスムは何らかの主義を提唱するものではない。現在、この運動の基盤となっている思想があるとしても、それは今後の運動の発展を予測させるものではない。したがって、この創刊号は、決定的な新事実を提示するものではない。本誌では自動記述、夢の語りなどによって得られた結果を紹介するが、調査、実験、作業の結果はまだ何も記録されていない。すべては将来にかかっているのである」としている。 『シュルレアリスム革命』誌の最終号は1929年12月15日付の第12号である。本号にはブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」が掲載された。第二宣言をもって運動は第二段階に入るが、運動内部での方針の不一致や対立により、一部の参加者がこの時点までに脱会するか、またはブルトンによって除名される一方、ルネ・シャール、ジョルジュ・サドゥール(フランス語版)、ジャック・リゴー(フランス語版)、フランシス・ピカビア、さらにルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、カミーユ・ゲーマンス(フランス語版)らスペインやベルギーのシュルレアリストが新たに参加した。これらの寄稿者は、最終号をもって最初で最後の寄稿となる(ただし、ピカビアは前号に記事ではなく挿絵を掲載している)。ブニュエルとダリの映画『アンダルシアの犬』の脚本が最初に掲載されたのもこの最終号である。 1924年12月に創刊された後、1925年には季刊誌として1月、4月、7月、10月に刊行されたが(第2号から第5号まで)、翌1926年には3月、6月、12月の3回(第6号から第8号まで)、1927年には10月の1回のみ(ただし第9・10合併号)、その後は1928年3月刊行の第11号、1929年10月刊行の第12号(最終号)と、かなり不定期である。 全12号に共通の内容はシュルレアリスム文学作品(詩と散文)、夢の記述、その他のコラムである。また、以下のように、各号にテーマが設けられている。 創刊号(1924年12月):新たな人権宣言に漕ぎつけなければならない 第2号(1925年1月):20世紀初頭のフランスの芸術 第3号(1925年4月):1925年 - キリスト教時代の終焉 第4号(1925年7月):そして労働との闘い 第5号(1925年10月):報道 第6号(1926年3月):フランス 第7号(1926年6月):最後の改心・転向 第8号(1926年12月):これらの男たち全員に欠けているのは弁証法だ(唯物論) 第9・10合併号(1927年10月):自動記述 第11号(1928年3月):隣の寝室(セクシュアリティ) 第12号(1929年10月):愛にどのような希望を抱いているか(愛) さらに、これらのテーマや自殺、性行為、宗教などに関する対談(質疑応答)も掲載された。 シュルレアリスムの絵画、写真、素描なども多数掲載された。コラージュ、フロッタージュ、デカルコマニー、デペイズマンなどシュルレアリスムの絵画技法を用いた作品である。表紙には主にマン・レイとマックス・エルンストの作品が掲載された。このほか、ほとんど毎回作品を寄稿した芸術家は、ジョルジョ・デ・キリコ、アンドレ・マッソン、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロである。1926年からはジャン・アルプ、イヴ・タンギーも毎回のように作品を発表した。彼らはまた、記事を寄稿したり、対談に参加したりしている。
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